『奇跡講座入門』を読み始めて、権力・権威のテーマに気づく

2019-05-09

『奇跡講座入門』を読んで遠ざけてしまった理由に気づく

一昨日から少ーしずつケネス・ワプニック著『奇跡講座入門』を読んでいる。

ケネス・ワプニック著『奇跡講座入門』

ACIM(コース)学習の入門書、基本書でありながらちゃんと読んでいなかった本…

私が思っていたよりずっと読みやすかった。ワークショップの録音の書き起こし原稿が大元になっているらしい。

ピュアさがある。なんか物理の先生みたいだ、と感じた。

読み始めて気づいたことがある。

知らずのうちにケネス・ワプニック博士の著書を遠ざけていた理由…

それは、「人間の・先生」に対して斜に構えてしまうくせ。私は「先生」につい批判的な目を向けてしまうことがあるのだ。

ヘレンさんが聖霊、イエスの口述をした『奇跡講座』はOK(人間じゃない)。

ゲイリー・レナード著『神の使者』シリーズは、アサンディッド・マスターがゲイリーに教えるというかたちだったからOK。

そこから推察するに、どうも私には「権力」「権威」分野の赦しの必要性があるらしい。(根が深そうだ)

「人間の・先生」ニガテ意識に絡む権威のテーマとその因果

ゲイリーさんのワークショップに一瞬二の足を踏んだのも、本のゲイリーさんが大好きだったから、講師としてのゲイリーさんに対して斜に構える自分を見つけてしまったらどうしよう、と不安があったのだ。

神さまに憧憬の思いを抱きながら、組織宗教に一度も関心がなかったのも同じ理由からかもしれない。

人間のカリスマは認めたくない…のか。

その先生が女性の場合は、もっと身構える傾向にある。数年前アートセラピーのインストラクターコースを受講するも、先生とそりが悪く途中で止めてしまったのも、そうしたことが絡んでいたのか。大きな赦しの機会でもあった。

それは、心理学的、カウンセラー的に見れば、生まれて最初に出会った権力者、母との関係につまずいたからよ、となるのかもしれない。

しかし私は知っている。

因果は逆だ。

私がその分野で「赦したくない」思いを持っているから、私が描く人生脚本のなかで「高圧的な母」の配役が必要だったのだ。実は密かに「高圧的」なのは私自身なのだ。

「人間の・先生」をすべて遠ざけてしまったら、学びの機会はぐっと狭まってしまうだろう。プロフェッショナルな職業をさす「先生」という言葉に反応してしまうけれど、先を行く人は誰だって先生なのだから。

今回はこの分野のしこりも徐々に赦していこうと思っている。

ゲイリーさんの教師としての素晴らしさ

話は戻るけれど、ワークショップでのゲイリーさんには「先生感」がなかった。参加者もみな「ゲイリー先生」ではなく「ゲイリーさん」と呼んでいた。それがしっくりきた。

それでいて素晴らしい教師だった。

京都のワークショップの質問コーナーである方が「親戚の人にいじめられて辛い」というような相談をした。

ACIM的観点から見たら、「それはあなたの攻撃性が投影されてこの世に見ているものです」というような回答も想像できた。

しかしゲイリーさんは、「僕も小学生の時いじめられてたんだ。いじめは辛いよね。」というように口火を切られた。(私の漠とした記憶より)

そして、昔バンド仲間で嫌なやつがいた、そいつは花粉症だったから春になって彼が苦しんでいた時は痛快だった、といった話もなさった。

それから…「でも忘れちゃいけないのは、いじめてくるように見える人は、本当は常に君の愛を求めているんだよ」と。

私はその答えを聞いて、前にもましてゲイリーさんが好きになった。妻のシンディーさんも優しかった。

もしかしたら、ACIM的に見れば厳正な答えじゃないかもしれないが、正論が必ずしもいつも正しさに導くとはかぎらないのだ。

いろんな教え方があってもいい。

私たちが断片になったように見えるそれぞれはいろんなポジションや時、場面から夢を見ているのだから。

 

あ、気づけばまた長文 ヾ(_ _。)

今はエゴが脅威に感じてシャッターを下ろさないように、ゆっくりゆっくりいろんな先生から学ぼうと思っている。

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