2018-12-05
門の外から永観堂の紅葉を愛でる
12/2~4母と京都に行ってきた。
ここ数年11月末、母はわが家に来ていたが、「今年は来ないの?」と聞くと「行かない。京都なら行く」とのこと。で、京都に行くことに。
1日目昼に京都着、永観堂がある東山方面へ。2日目は、定期観光バスで嵯峨野、高雄方面昼食付き一日コース。3日目は東福寺に立ち寄って駅での昼食後それぞれの家へ、という予定。
思っていた以上に母の歩行能力が落ちていて、なかなか予定通りにいかなかったが、念願の「秋の京都」に行くことができてよかった。
ホテルにチェックイン後、最初の目的地真如堂までタクシーを使ったが、メインだった永観堂の拝観受付(午後4時)には間に合わず(^_^;)。すごい人ひと… 紅葉は門の外からでも美しかった↑。
2日目は乗っていれば連れて行ってくれる観光バスだったけど、やはりそこからお寺まではかなり距離があるところもあって、バスガイドさんの許可を得て、いくつかの目的地を飛ばさせてもらって集合場所近くで休んでいた。
「やさしくする」目的が果たせず、げんなり
母は、ストライクゾーンが狭く、思ったことを口に出すタイプ。
新幹線の途中駅でスーツを着た男性二人が前の席に座った時には、「あ~、タバコくさい」
永観堂からの混みあったバスでは、前にいた強面のお兄さんに「もっと前に詰めればいいのに」
ホテルの大浴場では、バスタオルを巻いたまま風呂に入る韓国女子に「あれ~、なんやろか」。
このご時世、余計なことを口に出さないほうがいいと思っている私は、ヒヤヒヤして母をつつくが、母は「だってぇ、あんた」と話を続ける。
今回の旅の目的は「母にやさしくすること」だったけど、私自身、段取りが上手いほうではなく、まずホテルにチェックインすべきか、あるいはコインロッカーの空きを探すべきか、経済的には電車で行きたいところだけれど、やっぱり母にはタクシーのほうがいいだろうかなど、頭をぐるぐるさせ、
気づくと予定をつつがなく進めることばかり気を取られ、やさしくするどころか、母の細かい要望や質問にいらいらしがちだった。
母と別れた新幹線で、あ~ぁ、せっかく行ったに(やさしくできなかった(-_-;))、とうなだれた。
半年で一段と老いた母、その母に子ども心のまま甘えたい老娘
若い頃は、今でいう“毒親”だと思っていた母を恐れ、表面的にはいい子をやりながら、内心許せなかった。
それが40歳になる頃は、「お母さんも嫁ぎ先で生きるのに必死だったんだな」と一人の女性として見るようになり、許せるようになった。そうしたらいきなり情が湧いてきた。
本当はただ母を慕い、やさしくしてほしかったのだ。
そうやって精神的に大人になりそこねたまんまの老娘の私。
絶大な権力をふるいモノを言う強者だった母は、庇護すべき弱者となっている。今はただ、“要求が多いちょっと面倒なおばあちゃん”だ。
お盆の頃と比べても、老いたな、と思う。体力的にも、認知機能も。
そう思うと、いずれ来るお別れまでも想像してしまって、いたたまれなくなってしまった。
お母さんがいなくなっちゃたら、私どうしよう。。。
冷静に考えてみれば、80歳すぎて健在で一緒に旅行できるだけで有難いことなのに。
許せても、赦せてない…
『奇跡講座(ACIM)』では、この世と神の両方を取ることはできないと言う。この世がリアルじゃないから、自分の「罪」も贖われるのだ。
私にとって、母はリアルで、今、神か、母か、どちらかを取れと言われたら、迷うことなく母を取る。
私の認知は間違っている。
旅行中はすっかりACIMから遠ざかり、その存在すら忘れていた。
私が母に感じているのは、ACIMが言うところの“特別の愛”で、神の子たる普遍的な愛とは異なる(いや、それ以前、お母さんがいなくなったら自分が寂しいという単なるエゴだ)。
母を許すのではなく、本当は赦すべきなのだ、と今朝になって思い出した。
それでも、やはり私にとって、母はいちばん大切なひとで、平成最後、節目の秋、ともに過ごせてよかったと思う。
今朝の、久しぶりのワークでは頭が混乱していて、旅に行けたことにただ感謝をささげた。