2018-03-26
お花見日和
昨日は暖かい陽気だった。
色彩のサークルの後、同じサークル友だちと都営荒川線(東京さくらトラム)でお花見の名所、北区にある飛鳥山公園に行った。
飛鳥山公園は、8代将軍、徳川吉宗公が享保の改革の一環として飛鳥山に1200本以上の桜を植樹して庶民が飲み食いお花見できる場所としたことから発展したのだとか。
人、人、人…犬。人、人。犬(なぜかワンちゃん連れが多かった)。公園は老若男女で溢れかえっていた。小高い丘も、シートに思い思いの食べ物を乗せたお花見客でびっしり。
江戸時代にも老若男女がお花見を楽しんだ姿を想像すると、かたちを変えながら人の営みが繰り返されているのかな、と感慨深い気がした。
お花見というより、お花見客見、という感じだったけど、日本人の季節行事の(みんなでえいっと飛ぶ)“大縄跳び”に参加できた気がして、なんだかうれしかった。
レッスン180-レッスン169、170の復習
レッスン180は、レッスン169とレッスン170の復習。
L169)恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。
L170)神には残酷さはなく、だから私にもない。
「恩寵」という言葉が、普段なじみがなくて「恩寵とは、神の愛の一側面であり、真理の単一性の中に充溢している状態に最もよく似ている。(L169-1-1)」という説明も漠然としていてよくわからなかったけれど、わからない、はACIMではいつものことなので、さほど問題とは思わない。
神との一体性がもともとの姿で、それを思い出すこと。
一体性とは、簡潔に言うなら、「神、在り」という概念である。(L169-5-1)
私たちは「神、在り」とだけ言って、その後は口をつむぐ。(L169-5-4)
この「神、在り」が好きだ。神はすべてを包含する。そして、それ以外にはない。
そこに安らかさ、究極、を感じる。
クレームの電話を受け、イラッと … ACIMを思い出し、反省
このワークをしていた頃、マンション管理組合の次の役員の順番の方々にお知らせを出したのだけれど、その行動について古くから住んでいる他の役員の方に、「私に相談もなく…」とクレームのお電話を受けてしまった。
2年前私が役員になった時は、知らせもなくいきなり総会決議に名前が載せられて決まり面喰ってしまった。だから「お知らせ」は良かれと思って出したもので、それについてはこの前の理事会で確認を取ったつもりだった。だけど齟齬があったらしい。
私が引っ越し先を決めて心が逸っていたこと、それを口に出してはいないのだけど、その方が無意識に何かを察してそれに対する抵抗感みたいなものがあるもかも。
その後「役員は引き受けられない」という方も出てきて、なんとか別の方にお願いして引き受けてもらうまですったもんだしてた。
ここで気づいたのは、攻撃されると、私自身もつい受けて立っていらっとしてしまい、ACIMの教えをすっかり忘れてしまう、ということだ。その時は相手は年長者だし、すぐに「すみませんでした」と口に出したものの、内心は穏やかではなかった。
まさにレッスン170「正当防衛で攻撃していると考える時、あなたは、残酷になることが保護であり、残酷さのおかげで自分は安全だと思っているのである。(L170-1-3)」という世界にいた。
翌日、落ち着いてACIMの教えを思い出し、反省した。
「もう私理事会も出ないし、監事もしないから」と言われたその方に、電話をし直して「物事を丁寧に進めなくて、申し訳ありませんでした。」と謝り、「Yさんがおられないと諸々立ちいかないので、ご出席お願いします。」と、思いを伝えた。
そうすると、いらいらしていた気持ちがすっきりして穏やかな気持ちになれた。
攻撃を正当化する→恐れが安全を確保するものとなる→愛を敵とする→残酷さを崇める→残酷さと恐れを神としてしまう
レッスン170の攻撃と恐れに関する考え方のメカニズムは、ささいなことから有事まで、この世の惨状を生む因果を論理的に説明してくれている。
怒りを感じたり、イラッとしたら、それはすでに自分のフォーカスが間違っているということだ。
神に残酷さはなく、私にもない。
落ち着いて頭を冷やし、心を鎮めることだ。
攻撃的なところを内に秘めている私ならばなおのこと。
そして、それが表面に出てきた時こそ、手放すことができるのだから、その舞台に参加してくれた人は、縁があり感謝すべき人なんだ、と確認。