2018-03-17
今年もいよいよ活動期へ
すごく暖かい日があったかと思うとまた急に寒い日が続いたりしていたけど、ここに来てようやく暖かさが安定してきた。
動植物が動き出す「活動期」が今年もいよいよやってきたなぁ、と思う。
幼い頃から、一年のうちでは春がいちばん好きだった。
雪国の富山で育ったためか、寒くて空もどんよりした冬が過ぎてふきのとうが芽を出す頃になると、しみじみうれしかったものだ。
東京は冬の空がすばらしい。が、その分、春が来る喜びは薄まる。花粉症なんていう都会人がなるものと思っていたアレルギーになってからはさらに、純粋に春が喜びにくくなってきた。
それでも、この季節になると、ああ、今年も一年が始まると、気分が高揚してくる(4月から新学期、というのが、未だにからだに染みついているのかな)。
レッスン178-レッスン165、166の復習
レッスン178は、レッスン165とレッスン166の復習。
L165)私の心が、神の想念を拒否しませんように。
L166)私には、神の贈り物がゆだねられている。
2月27日~3月4日までレッスン178のワークをやっていた。
そして、このワークをやっているときに、「私はACIMを信じていない、自分が信じているゲンジツからACIMに逃げているだけだ」(参考:転換点ーACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか)と感じた。
でも、細々とだけどACIMの学習を続けてきたのも事実。小さな部分ではあるけれど、ACIMは私の一部になりつつある。
私は少しずつでも変化しているんだろうか。
自分ではわからない。ただ、この世で見せる自分(仮面?)と、ACIMを心にもつ自分(本来の自己?)の間にギャップができていて、そのギャップが大きくなっているのを感じる。それを小さくしたい。
内心では、エゴがそうはさせるものか、と暴れているような気もする。「ACIMの学習をやることは認めた。それはこの与えた庭からはみ出さない範囲でだ。そこを超えたら痛い目に合うよ」と脅かしてくるのだ。
私の心の中での葛藤?
神へ…くりかえし背中を押しつづけるACIM
「この世が実在するように見えているとすれば、それには、あなた自身が世界を超えたところにある真理を否定しているということ以外に、どんな理由があるだろうか」(L165-1-1)
私にはこの世がかなりリアルに見えている。少しでも行動を起こすとそれはさらにリアルに映る。そして、ACIMの学習から少し離れても、それはさらにリアルになる。
「天国を拒否してはならない。求めさえすれば、それは今日あなたのものになる。」(L165-4-1)
「真に欲しながら求めなさい。」(L165-5-1)
「神は例外なく与え、あなたの幸せのためになるものを与えずにおくことはない。けれども、あなたの意志が神の意志とひとつとなっていなければ、神からの贈り物が受け取られることはない。」(L166-1-4,5)
「自由になりたければただ、誰が自分とともに歩んでいるかを認識し、自分の宝庫を開きさえすればよいのである。」(L166-6-3)
ACIMはくりかえし、くりかえし、神への道を説いている。
ACIMのすすめに、恐怖にからだをこわばらせている私
私も、ワークブックに向かっているときは「わかる」と思う。
その一方で、強い不安も感じる。
聖霊に自分をゆだねることへの不安。
エゴが傷つくことへの不安。
ACIMをすばらしいと思っているというのに、恐怖にからだをこわばらせている。進むことも退くこともできずに固まっている。
「あなたがどんなに恐れを抱こうとも、ただ一言「そうではない」と慈悲深く、やさしく答える存在が、あなたとともに歩いている。」(L166-11-3)
「その存在は、あなたが貧困という概念に圧迫されるたびに、あなたのもっている贈り物のすべてを指し示す。あなたが自分を孤独でおびえた者として知覚するときには、あなたには旅の同伴者があると語りかける。」(L166-11-4)
私がこの世でACIMを生きるとは、どういうことだろう
私がこの世でACIMを生きるとは、どういうことだろう。
コースを歩むとは…?
生身のからだをもった私は、何をして、どうやって稼ぎ、
だれと、どこで暮らし、
何であるのか。
聖霊がせっかく強く呼びかけてくれるのに、手で両耳をふさいだり開けたりしながら「あ~」をエゴの声を張り上げて、ちゃんと聴いてしまわないようにしている。
「神の贈り物を受け入れ、キリストの感触を体験することを選択する心がどれほど大きく変容するかを、あなたの幸福によって証ししなさい。これが、今やあなたの使命である。」(L166-15-4,5)
諸々のこと、よくわからないけれど、ここに書かれている「あなたの使命」をきっと私は生きたいんだなぁ。
これが私の真北だ、やっぱり。