2018-01-10
恩寵とは
昨年末12月27日に英語と日本語版でレッスン169の本文を読み終え、帰省後の29日~31日にかけてワークをした。
本文が長かったのと、「恩寵」という言葉にいまいち馴染みがなく恩寵とはどういうものかが引っかかり、難しく感じた。
「恩寵」は原文ではgrace。辞書では、恩寵、神の愛、恩恵とある。
大畑学さんの『A Course in Miracles Workbook精読』では、「神の恵み」と訳され、主題概念は「私は神の恵みによって生きる。私は神の恵みによって解放される」となっている。こちらの方が言葉としては易しい。
レッスン169本文では冒頭「恩寵(grace)とは、神の愛の一側面であり、真理の単一性の中に充溢している状態に似ている。」と説明があり、続いて「それは完全にこの世を超えたところまで導くものなので、恩寵を目指すことは世界で最も崇高な志である。」と加えられている。
それからずっと恩寵の説明が続くけれど、わかったような、わからないような…。いややっぱり、わからない…。
読みすすめるにつれ、禅問答ってこんな感じかな?という気分になってくる。
第2パラグラフには、「恩寵とは、憎しみと恐れに満たされているかに見えるこの世の中で、神の愛を受け入れることである。」とある。恩寵とは「神の愛を受け入れること」、そうすれば「もはや恐れの世界の実在性を信じることはできない。」(L169-2-2)
「恩寵とは学べるものではない。(L169-3-1)」とも書かれているが、学んだ結果の最終段階を超えた、その結果として気づいたり感じとれたりりするものなのかもしれない。
「神、在り」そして、この世はない
ACIMの学びは最終的には「神、在り」という一点に行きつく。「そして、神の実存のうちに、神はあらゆるものを包含する。心の中には神以外に何もない。私たちは『神、在り』とだけ言って、その後は口をつむぐ。(L169-5-1)」
この「神、在り(それ以外には何もない)」、概念としては受け入れているけれど、実感としてはわからない。恩寵とはこれが実感として感じられるようになることだろうか。
「世界は一度も存在したことはなかった。永遠が、恒常の状態であり続ける。(L170-6-6)」
「私たちは以前から何度も繰り返してきたが、あなたはすでに終わっている旅をしているにすぎない。(L170-8-3)」
今の私にはわからなくても、旅はすでに終わっている。神という恒常だけがある。私たちは、すでに撮影済みの映像をくりかえしくりかえし見ているにすぎない。それが実感としてわかる時がある。
そのために今は、(わからずとも)自分に割り当てられている配役を果たすだけ。そう言われているようだ。
「だから、あなたには自分の役割を果たすために為すべきことがあるということだけで、充分としよう。(L170-11-1)」とある。
恩寵を感じられるようになるためには、これまたくりかえされていることだけれど、聖霊の導きにしたがって、赦しを実践すること。ここに行きつくようだ。
恩寵―私の考え
ワークブックの文章は抽象的で、読んでいるうちに意識が上滑りしていて、腑落ち感もイマイチない。
ワークをして、恩寵とはわかりやすくいうと、感謝なんだ、と思った。
神の恩寵、恵みが感じられるようになった状態はおそらく感謝に溢れた状態ではないだろうか。この世の醜いところ、残酷さ、怖れ、罪深さ…といったものが意識から離れ、ただただありがたい、そういう状態が恩寵を受けた状態ではないだろうか。
感謝ということばは、どこかしら下から上へ、施された者から施した者へと向かう印象があるが、そうではない。上下なくすべてに在るものであり、この世で表れうる最高のものではないだろうか。
言葉の「ありがとう」だけじゃなくて、心から感謝を感じること。感謝を感じられることが恩寵なんじゃないかな、と思う。
私は元々愚痴っぽくて、感謝が足りない。今は「ありがとう」と口にするよう意識しているけれど、心から言っているかといえば、そうじゃないことも多い。
今年は感謝できる能力をアップしたい。