2017-10-21
レッスン157-今、私はキリストの臨在の中へ入っていく。
ますますさむい。腰全体を膝かけでくるんでパソコンに向かっている。今からこれじゃあ、先が思いやられるな。今年の冬は寒いかな。
明日衆議院選の投票日。お天気がよくないみたい。おととい初めて期日前投票というのに行ってきた。楽だな、これ。投票日に縛られなくていいし、だれに入れようかと直前まで考えなくてすむから。今回から選挙区の区割りが変わって、ますます馴染みのない人に投票した。
ACIMを学んでいると「政治より自分自身のものの見方なんだよな、まず変えるべきは…」という気分になり、政治に関わらずすべての物事に対して熱くなれない自分がいる。
さて、レッスン157。
今、キリストの臨在の中へ入っていく。
原文では、Into His Presence would I enter now.
となっている。「キリストの」と訳されているこのHisは「神の」「神性の」そのものだろう。「キリスト」はイエス・キリスト個人を指すのではなく、私たちの心の中にある聖なる部分を指す。私たちは神の計画にしたがって聖霊とともに救済を実践するキリストとなるよう導かれている。
これはこのカリキュラムにおけるもう1つの決定的な転換点である。今、私たちは新しい次元を加える。(L157-2-1,2)
と、このワークの意義が書かれている。その内容は…
それは学びが終わる扉の前まで私たちを連れていく。そして、私たちは学びが達成できる最高峰を超えたところに何があるかを垣間見る。(L157-2-3)
今日、あなたは一瞬の天国の感触を味わうことができるだろう。(L157-3-1)
私たちは、学びが連れていってくれるところとその先を垣間見る。それはワークブックで智識と書かれているものだ。そして学びへの信念をさらにゆるぎないものにして学びを加速するように背中を押されている。
それは学んだことを同胞に伝え分かち合うためだ。これが、学びを自分のものとする唯一の手段でもある。
今日から、あなたの司牧の職務は真の献身となって熱意を帯び、それがあなたの指先が触れる人々へと伝わり、あなたが見る人々を祝福する。(L157-5-1)
あなたの肉体は今日、聖別される。今はその唯一の目的は、世界を照らすために、この日にあなたが体験するものを見る心眼(ヴィジョン)を運んでいくことだけとなる。(L157-6-1)
かなり壮大なワークだ
ワークをして
ワークの一部を抜粋して書き移すだけじゃ何の意味もないなぁ、と思いながら書きだしている。
10月17,18,19日にこのワークをやった。やったといっても、日中のワークはほとんどできず、朝と夜の瞑想ワークが中心だけど。
「キリストの臨在の中へ入っていく」ができているかどうかはわからない(おそらくできてない)けれど、目をつぶって静かにしていると、何かが自分の頭上でくるくる回っているような感覚、そして身体の中の組織をつないでいたものがほぐれて波打って突き上げてくるような感覚をもった。ほんとに体組織が崩れたら怖いけど(^_^;)体が解きほぐされているような感じ。
こうした感覚は、このワークでなくても時々ある。
「神の臨在」「キリストの臨在」がどんなものかは見当もつかないけれど、ワークをしていると瞑想音楽とも相まって安らかな気持ちになる。今はそれでいいかな、と思っている。もともとそうした感覚がある方でもない。
「自分を忘れろ」「体を忘れろ」と言われている気がした。それが、自分をゆるめる→自分をゆるす、心を自分という囚われから解放するのかな、と。そう思ったけれど、そこまで自由にはなれず、逆にプレッシャーも感じてきた。
日常いつも、自分、自分…で生きているけれど、自分は囚われの枠にすぎない。それから解放することが大事らしい。
そして、三日目のワークでは「感謝って神さまそのものだったんだ」と思っていた。だから、心をこめて感謝するたびに神さまを思い出し、神につながっていたんだ、と。だから感謝がだいじなんだ、と。
ワークをしていて、そもそもワークができているのか、前進できているのか否か、皆目わからない。けれど、こうした安らかな気持ちになれること、それだけでもすごくいいかな、と思う。
浮かんだことば
感謝は私たちを正気にする。