2022-05-30
色えんぴつ画展に出す絵を描く
先週、月に一度習っている色えんぴつ画の展覧会があった。
ピアノを習っている人だったら「ピアノの発表会」のようなもの。先生に習っている生徒、それからプロになった方も含め総勢150名が出展した。
5月という日程が決まったのがわりと急だったので共通課題「夏の終わりに」はある程度できていたが、もう一方の自由画が手つかずだった。
直前になってから、家にあるもので何か描こう、と室内を見渡した。
芽が出てしまった玉ねぎをコップに入れて置いていたのが目に付いたので、それを描いた。
さて、出品のためタイトルをつける段になって迷った。
玉ねぎは玉ねぎだけど、これは何と名づけるべきかー
「エゴの解体とは玉ねぎを剥くようなもの」
ふと頭に浮かんだのが、コースの何かで見た「エゴ(自我)の解体とは玉ねぎを剥くようなもの」という言葉だった。
玉ねぎを一枚ずつ剥いていくとやがてなくなるように、エゴも赦しを続けることに解体されてやがてはなくなるー。
玉ねぎを剥くという目に見える行いで例えてあるところがわかりやすかった。
何で見たんだっけー?
調べたら『神の使者』の続編『不死というあなたの現実』(ゲイリー・R・レナード著)だった。
以下引用するとー
「ヒンズー教には、エゴの解体とはタマネギを剥くようなものだ、というたとえ話がある。そのたとえを借りれば、きみが誰かを「コース」にあるとおりの意味で赦すなら、タマネギを一枚剥いたことになる。というか、エゴの層を一枚剥いたわけだ。きみには何も変わらないように見えるかもしれない。どうしてか?タマネギを1枚剥いても、やっぱりタマネギだ。同じように見えるだろう。だがほんとうは同じじゃない。1枚剥かれて皮が減っているのだから。」(『不死というあなたの現実』p113より)
「きみが赦しを実践すると、もうきみには学ぶ必要のないレッスンが出てくる。そこで聖霊はそのレッスンのある時間の次元でテープを消し、その次元を消滅させる。聖霊には見えるものがきみには見えないから、きみはそこで座って考えている。退屈だな、何も起こらないよ。だが実は瞠目すべきことが起こっている。タマネギがさらに剥かれ、きみのエゴが消えていくんだ。
きみががんばって赦しを実践し続けると、ある時点でタマネギの芯に達する。そこも剝いてしまうと、もう何も残っていない。タマネギは消えた。エゴも同じなんだよ。」(『不死というあなたの現実』p114より)
タイトル「玉ねぎの虚夢」とつける
私が描いた玉ねぎは皮を剥かれるどころか、自分が土に植えられていないことを知らないのか気持ちよさそうに茎を伸ばしていた。根も生えてきていた。
本当は食べられる運命だったものが私の怠慢のせいでその機会を奪われ…。まるで「自分はビッグな農場のビッグな玉ねぎになってたくさん子孫を残して繁栄するんだ」という夢を見ているかのように見えた。
…虚しい。
しょせん、私の家の水栽培。いくら茎を伸ばしたところで先はない。
そもそも私にとって玉ねぎは剥いていくべきものの象徴なのだ。こんなところで成長を夢見ているものではない。
…そこで浮かんだタイトルが「玉ねぎの虚夢」。
展覧会直前の講座で、「え、これ玉ねぎだったの?花の球根かと思ってた」と同じ講座の方に言われたから、このタイトルにしてよかった。
ある意味自画像?
さて、展覧会には会期中述べ1,000名超の方が来場したらしい。
受講生は持ち回りで受付をやるのでその頭数も入っている。中には連日足を運ぶ受講者もいたからお客さまの実数は半分に満たないかもしれない。
来場者の中にACIMを学んでいる人はおそらくいないだろうし、私が「玉ねぎの虚夢」に込めたACIM的メッセージー実体も継続性もない本当は解体すべき自我を育ててしまっている私ーを思い描く人など皆無だろう。
で、ここに載せた。
自画像ーとも言えるか。
その後、玉ねぎはしぼんで茎もしおれ「夢破れた玉ねぎ」みたいになった。一瞬絵にして対比したら面白いかなと思ったが、面倒なので止めた。
ゴミ箱に捨てるときちょっぴり罪悪感を感じた。それを赦した(この終わり方作為的かな?)。
素敵な絵ですね!私はあまり絵心がないので、こんな素敵な絵を描けるのが羨ましいです。
記事にあるアーテンの玉ねぎの話、私もすごく印象に残っている文章の一つです。「玉ねぎの虚無」本当にその通りだと思います、、、。
ちなみに私は風の盆の八尾町に住んでいます!踊れませんけどね^^
タンポポさん、こんにちは!
連日暑いですね。お元気ですか。
コメントありがとうございます。
すっかりブログから離れて自分のブログながら、なかなか近づけなくなってます(^-^;
えっ!?タンポポさん、風の盆の八尾町に住んでおられるのですか!!
すごい情報ありがとうございます。
風の盆、二十年前くらいに一度行きましたが、なんとも言えない風情でした。
ここ最近コースの勉強から離れてました。離れると、考えも薄れていきますね。常に触れていることが大事ですね。。
タンポポさんのお言葉、「暑中お見舞い」のように感じました。ありがとうございました。
こんばんは!
関東のほうは最速で梅雨明けしちゃいましたよね、、、。
夏が長すぎですわ~~~(´~`;)
おわらの踊りは八尾町でもその特定の場所で生まれ育った人しか踊れないという決まりがあり、私は八尾といっても結構郊外に住んでいるので、踊りは見る側なんです^^
今年はコロナで中止になっていた風の盆が2年ぶりに開催されるようで、嬉しいですね!
実はついこの間、ガン末期の母を家で看取ったのですが、色々と難しい局面にさらされることも多く、意識朦朧と苦しむ母の手を握りながら(医療用麻薬などの薬の投与などはしていましたが、、、)何度となくイエス兄さんに祈っていました。相変わらず声は聞こえませんでしたが、罪悪感や後悔が最小限に抑えられたんだろうなということは感じます。でもやはり、今はフラッシュバックなども起こり、心の底から恐怖を感じることもありますね。
ただ、奇跡講座がなければたぶん私自身が身体も心も潰れていただろうなとすごく思うので、もっとまじめに勉強しようと思いました。
こういうことがなければ私もコースを離れたりしていたと思います。
どんなにコースから離れても、私たちはきっと何度となく呼び戻されるわけですから、気長に一生かけてやっていくしかなさそうですよね^^
こんなところで重い話をしてしまいごめんなさい!
連日、本当に暑いのでどうかご自愛くださいませ。
タンポポさん
ガンで闘病なさっていたお母さまをご自宅で看取られたのですか…
今の私が想像できるのはわずかかと思いますが、
さぞ辛かったでしょう。よく頑張られましたね。
肉親との別れは人生でもっとも辛いですね。
この世は夢のようなもの、すべては最初の分離の投影…とは聞きますが、それを自分のこの世での人生を重ねるには、長い長い時間が要りますね。
タンポポさんの祈りは通じているのではないでしょうか。
そうですね。どんなにコースから離れても、きっと何度となく呼び戻されるのですから、気長に一生をかけてやっていくのが結局はもっとも近道なのかもしれないですね。
意識では学ぼうと思っていながら、無意識ではかなりの抵抗があるようで…だからこそゆっくりいこうかなぁと思ってます。
ほんと猛暑が続きます。ご自愛くださいませ。