2021-08-10
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。
6月下旬から中断してしたこの本読みプロジェクト。8月に入ってからまたゆるゆるやり始めた。続けられるかどうかはわからないけど…。
赦し:聖霊の計画
さて、今回は9章第3節「赦し:聖霊の計画」へ。
前回9章2節の「赦し:自我の計画」が私たちをマインドレス化することだったのに対し、聖霊の計画はマインドレス化してしまっている私たちを「マインドフル化」することだ。
マインドフル化するとは、一言でいうと「心の中にある選択力を自覚できるようになること」だ。これはもちろん『奇跡講座』の最重要テーマのひとつである。
テキスト9章の中から横断的に聖霊の計画に関する箇所が引用されている。
私たちには自我ではない導き手が必要
最初の引用文は1節からの次の文だ。
「あなたはこのような奇妙な状況を作り上げてしまっているため、何があなたの実相であるかを確かに知っている導き手がいなければ、そこから抜け出すことは不可能である。この導き手の目的は、あなた自身が何を望んでいるかをあなたに思い出させることにすぎない。(後略)」(T-9.Ⅰ.3:5-7)
「このような奇妙な状況」とは、言うまでもなくこの世で私たちが個々の肉体を持って生きている(と思っている)ことを指している。
私たちは必要があってこのような状況を作った。それは個々の特別なアイデンティティに対する執着とそれを失うことに対する強い恐れだ。そのため防御バリアを作らざるを得なかったのだ。
イエスはそのような経緯を経てここにいる私たちが、自分たちだけで方向性を転換することは不可能なのだと言っている。
さらにそんな私たちは真理をストレートに受け入れることは到底できないため、聖霊の「赦し」という真理へのいわば間接的アプローチを用いるのだとワプニック先生は説明されている。
「(前略)このように、あなたの心についての聖霊の知覚が、あなたの心の実相をあなたにもたらすというのなら、聖霊はあなたが自分の本性を思い出すのを手伝っているということになる。」(T-9.Ⅰ.4:1-4)
「聖霊に呼びかけることによって私たちは自らの心の中の正気の部分を呼び起こしているのであり、それを基にして自我の狂気を見て自我が何を望んでいるのかを理解します。」とワプニック先生(ここに限らないのですが、訳に自信なく自分のフィルターを通してしまっています)。
そうすることで、天国の正気(神の意志)を反映するようになり、神の一人子としての自分は誰なのかという記憶をよみがえらせることができるようになる。
人との違いではなく同質性を見ること
次のテーマは、聖霊の計画の内容ー違いではなく同質性、同一性に目を向けることの重要性だ。
「あなたは、自分ひとりのために喜びを見出せないのと同じように、自分ひとりのために祈ることもできない。(後略)」(T-9.Ⅱ.4:1-2,4-8)
「私はあなたを信じているのだから、あなたも自分の兄弟たちを信じなさい。そうすれば、あなたについての私の信念が正当だとわかる。」(T-9.Ⅱ.8:1)
上記以外に2節「祈りに対する答え」の中から (Ⅱ.6:1-5) (Ⅱ.6:8-12)(Ⅱ.7:5-7) (Ⅱ.8:7)が列挙されているが、これらはみな「兄弟は自分とは違う」という私たち思い込みを解くものだという。
「人と自分は違う」という思いは自我の思考をベースとしている。
その理由は、またいつものように「神の分離」に端を発する例のおはなしだ。
問題は私たちが「神からの分離」を現実のものとし「神と神の子は別、違う」という思いから個の思考システムを作り、その証ともいえる物理的な世界を作り上げたことにある。そもそもこの世にはその誕生からして個として違いを強調する動機があるのだ。
また自分のものとしがたい内面を他者に投影するしくみも加えられた。神から離れたという罪悪感を自分では背負いきれないからだ。
聖霊は、人と自分は一体であり同じだという点に意識を向ける。その見方によって自我の見方を取り消すことが可能になるのだという。
同盟や派閥を必要とする私たち
私たちが違うということは人生経験上でも感覚的に溶け込んでおり取り消すのは非常に難しい。
ワプニック先生は「あなたと私は違う」というだけではなく「あなたと私は敵同士」なのだと指摘されている。
繰り返しになるが「違い」を求めるのは、罪を自分ではなく他者のものにできるから。「自分とあいつは違う。悪いのは自分ではなく、あいつだ」と投影を正当化できる。
そして罪悪感を相手に押し付けた後には相手に対抗するべく同盟を作るのだという。
国家だろうと家族だろうと会社だろうと友人関係だろうと、私たちは派閥や同盟を必要としているのだという。
そしてそれは結果的には痛みにつながる。
そこに気づくことが、私たちが見方を変えようとする動機となるのだと説明なさっている。
真理における一体性をこの世で生きる
「兄弟たちがあなたの一部であるなら、あなたは彼らを受け入れるだろうか。彼らだけが、あなたは何であるかをあなたに教えることができる。なぜなら、あなたが学ぶことは、あなたが兄弟に教えたことの成果だからである。あなたは彼らの中に呼び出すものを、自分自身の中に呼び出す。(後略)」(T-9.Ⅳ.3:1-5)
聖霊の計画には、真理における一体性をこの世で生きることの重要性も述べられている。
一なる子とその源との一体性は、この世では他者と自己の一体性として現わすことができる。
「私たちはコースの形而上学的真理とその適用の間のギャップを埋めることを教わっています」とワプニック先生がおっしゃるとおり「奇跡講座とは実践的なコース」なのだ。
つまり「一体性は、私たちがこの世で生きる指針としないのならばまったく無意味なのです。」(同)
さらに「どれだけそのように生きたいと思っていないのか自覚し、分離するという決断を心の中のイエスの愛の元に持っていくことによってその実行を学ぶのです。」と説明は続いている。
この世で一体性を生きるには、兄弟に対する信頼が不可欠だが、「兄弟を信頼する (W-pI.181)」とは兄弟の自我を信頼することではないという。
「(兄弟の)攻撃的な自我に基づいた行動を否定するのではなく、それを越えて神の子の生来の一体性に目を向けるのです。」(ワプニック先生)
ただやはり一体性を思い出してしまうと個としての特別性が脅かされるので、私たちはそれを思い出さないようにしている。そのしくみが人を裁くことなのだと説明されている。
「何か目にしたものを裁きたい、批判したい」というのが、私たちのデフォルトなのだ。
そして「裁く」と「憎む」はとても近いのだと説明なさっている。
兄弟の中にキリストの顔を見る
「あなたなくして神の意味は不完全であり、あなたの被造物たちなくしてあなたは不完全である。この世界では、兄弟を受け入れなさい。それ以外の何も受け入れてはならない。なぜなら、兄弟はあなたと一緒にあなたの被造物たちを創造したので、あなたは兄弟の中に彼らを見出すことになるからである。(後略)」(T-9Ⅵ.7:7-9)
ここでもイエスはコースの形而上学的なレベルと実践的なレベルを集約しているという。
このテーマはさらに進むと「兄弟の中にキリストの顔を見て神を思い出す」という定型句として表現されるようになる。
「他者の中にキリストの顔を見る」とは、相手の罪のように見えるものの背後にある無垢性を見るということだ。
私たちは自分が知覚することを基として感情を感じるが、そもそも知覚は当てにならないものだ。逆なのだ。
「投影(延長)が知覚をつくる」のだから。
分割や違いを前提とした自我の思考システムを取り消していくにつれ他者との同一性も知覚できるようになり、さらにますます聖霊の存在も感じられるようになる。
ちょこっと感想
読んで理解できたと思うことを書き留めておきたくて書いているが全部は書き写せないので自分なりにまとめる。そこに「自分の見え方」が入ってしまう。
だから、どれほどワプニック先生がおっしゃりたかったことが捉えられているか不明。そもそも訳も心もとない(読んでくださっている方がおられたら、個人的な学習ブログとして大目に見ていただきたい)。
今回はいつもより「自分」が入った(独自にまとめたところが多かった)ような気がする。
聖霊の計画は自我の計画より、私にとってはわかりにくい。
すっかり理解できていたらここにはいないのかもしれないし。
他者との間に「違い」を見るのではなく「同じ」と見る、と言われても、まだまだよくわからない。
この世の市場経済って、個の違いを際立たせそこに価値を見出してもらえたらおカネと交換できるというしくみだし…。
「裁くのがデフォルトになっている」というのは理解しやすい。
だから、気づくとしちゃっている不満、批判、グチにまずは気づくだけでも、聖霊の計画のワンステップなのかもしれない。
(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)
今回もありがとうございます。
今私が読んでいるコースのレッスン156の所と一致していて、自分のものとして捉えるのにとても助けになりました。
utakaさん
いつも読んでくださってありがとうございます!感謝です。
レッスン156をやっておられるのですね。私はワークブックはしばらくやってないのですが、やってないと忘れてしまいますね。またやりたいなと思ったりしてます。