2021-07-29
精神分析では何も起こらない!?
前回ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめをしたときは感想らしい感想も書かなかったが、実は最も印象に残ったのは精神療法についてのイエスの次のような言葉だった。
「このように明白な矛盾こそが、精神療法で何が起こるのかを真に説明した者がいない理由である。本当に何も起こらないのである。」(T-9.Ⅴ.5:2-3)
精神療法では本当に何も起こらない…
この言葉が書きとられたのは精神分析の有効性を評価する研究が進められていた1960年代のことで、結論は出なかったもののある研究では、三分の一には改善が見られ三分の一は変化なく残る三分の一は悪化した、というワプニック先生の説明がある。
ここでイエスは、セラピストは解釈はするものの心を扱っておらず自我の思考システムが取り消されてしないため癒されない、したがって何も起こらないと述べている。
そうなのかー。
なぜ引っかかったのか
この箇所を私が気に留めたのは、私自身が昔長いことカウンセリングを受けていたからだ。
断続的で何年も間が空いたこともあるが同じ方の元に10年以上に渡って通い、時間もおカネもかなりかけた。
カウンセリングを受けるだけでは飽き足らず講座に通い産業カウンセラーの資格も取った。上のシニア産業カウンセラーも勉強したが、そちらは面接が通らずついに取れなかった。40歳を過ぎてからはカルチャーのユング講座にも長く通った。
イエスの言葉を読んでああしたことはまったく無意味だったかしらん?とふと過去を思い出していたのだ。
私がカウンセリングを受けた背景
そもそも私がカウンセリングを受けたのは、人生で最初の人間関係に躓いたからだ。
私は物心ついた頃から母がとても恐ろしかった。言葉でも厳しかったが殴られたりつねられたりするのも日常。それを誰にも相談できなかった。
ヒステリックに怒りをぶつけてくる母が嫌いで、表面的には従順にふるまいながらも心の中では憎んでいた。大きくなったら復讐してやろうと心に誓っていた。
今思えば、母は頭がよく仕事もできる道徳的なひとで、ただ“嫁”も仕事も完璧にやろうとするストレスから子ども達に当たっていたように思う。
機能不全家族の中で育った子どもを「アダルトチルドレン」として紹介している記事があって、私はこれじゃないかな?と思い、離婚後自分を何とかしようとカウンセラーの元を訪ねた。
生い立ちの話を聴いてもらった
私を担当してくださったのは私より十ほど年長の女性で、フロイト派のカウンセラーさんだった。「あなたはどこでこんなに傷ついてしまったんでしょうね。」と穏やかな表情で私の生い立ちに耳を傾けた。
料金は最初50分5000円だったがしばらくして8000円になった。多いときには週に2回通ったこともあった。
スピリチュアルなことに関心があった私が『前世療法』という本に刺激を受けて「(私の生きづらさは)前世に由来するのかも」と言うと、「まずは今の人生で探してみましょうね。」と穏やかにおっしゃった。
カウンセラーさんは主に話を相槌を打ちながら聴いてくれていたが、たまに分析的なことも話してくださった。
今ふと思い出したのは、私が小学校1年生の5月骨折したことについて語ってくださったことだ。
その日は担任の先生の家庭訪問があった日だった。私はテンションが上がったためか夕方家中の椅子を集めて椅子から椅子へと飛び、最後に勢いをつけて学習回転椅子に飛び乗り文字通りくるくる回転した挙句床に投げ出された。痛っ(>_<)
鎖骨と細い骨を骨折し1ヶ月くらい入院した。
カウンセラーさんの分析によると、小学校1年生はまさに親から自立に踏み出す時期なのだけど、それまで十分に甘えられておらず必要な成長過程を経ていなかった私は、甘えたい気持ちをくすぶらせがらも素直には甘えられない。そこで(私の)無意識はわざわざ骨を折って私を無力として、その上で母に世話を焼かせ甘えられるように仕向けたのだ…とおっしゃった。
この世のストーリーとして見たら、その解説は当たっていると思う。
カウンセリングは役に立ったか
さて、カウンセリングは私にとって役に立たなかったのかー。
私は「無意識」のはたらきがおもしろいと思った。自分が知覚できない自分があってそれがすごい影響力を持っていることに興味を持った。
また精神療法的アプローチが効果を発揮したか否かはわからなかったが、これまで誰にも話せなかったことをじっくり聴いてもらえたという点で救われた思いがあった。
話すことによるカタルシスもあった。
一方でこれは彼女にとって「しごと」なのだと思うと寂しさもあった。
一部の男性が女性が接客するお店で「恋愛」にのめり込むみたいに、私も優しさや母性みたいなものを乞うて貪っていたのかな?
最終的には契約に基づく人間関係と分析する方とされる方という立場の壁に虚しさを感じるようになった。
それでも大変だったときに支えてもらったことには変わりはない。
その後出会ったユング講座では、無意識のはなしや夢分析、「シャドウ(自らの影)」の概念、投影といった概念に親しみ、奇跡講座を受け入れる土壌になった。
私にとって精神療法的なことは役に立ったというか必然的にそちらに向かったように思う。が、それだけでは行き詰ってしまう…というのも、今は確かにそうだと感じる。
聖霊と精神療法の見方の違い
ひとつの出来事でも、精神療法的立場に立つか聖霊の立場に立つかで、まったく違ったものになる。
精神療法では、この世のあらゆる他のものと同じく「神からの分離」によって私たちには罪と罪悪感があるという大前提からスタートする。一方聖霊は、神からの分離など起こっておらず罪も罪悪感も幻想なのだとする。
精神療法ではこの世の出来事はリアルで過去は人生に影響大で、私は母から虐待を受けた被害者だとするのに対し(元夫に対しては逆に“加害者”)、聖霊ではこの世は自分が見せている夢のストーリーで、私は「憤怒した神」のイメージを母に投影して見ていただけだという。聖霊の視点で見れば母に見た嫌な質は私の無意識にある己の姿そのものなのだ。
そして解決策。精神療法では過去に傷つくいわれはあったがそれはそれとして今を生きようと導くのに対し、聖霊では私はまったく傷ついておらず必要なのは過去を赦すだけだという。
(すべての精神療法についてはわからないけれど、私が出会ったものをさしています)
そしていま
私の精神構造は子供のまんまだ。精神的に大人になり切れなかったと思う。でも、だからだめとも思わない。
もしかしたら私が親との関係に躓いたのは、今回の人生で神との関係に意識を向けるためだったのかな?とも思う。
老いて小さくなった母にかつての絶対的権力者の面影はない。いつの間にかかばうべき対象になっている。
「特別の関係」だとはわかっているが、今も私にとって最も愛しく大切な人だ。
『奇跡講座』と出会えたのだから、できるかどうかわからないけれど少しずつでも聖霊の見方にシフトさせながら生きたいと思う。
今日のお話、「聖霊と精神療法の見方の違い」、全くそういうことなんですよね。私の中で曖昧になっていることがタマソニアさんの言葉で、綺麗に整理されていくことがよくあります。読ませて頂き、そうそう、、と納得していけます。
私も親との関係に躓き(親だけではありませんが)、救いを求めるように奇跡のコースに触れ、お陰様でだいぶ整いました。これがなかったら、一体どうなっていただろうと見当もつきません。ここに至ったということただ感謝です。
utakaさん
長文読んでくださってまたコメントくださってありがとうございます。
utakaさんも、救いを求めるようにコースに触れ…そうなんですか。このコースというのは、目に見えないものが好きな方でも反応するひととそうでないひとに分かれ、不思議です。
超ニッチブログで誰も見ないし…と自己開示的なことを書いてしまい、不安も感じていました。書けて読んでもらいそれでもう一つ進めるような気もします。