2021-06-18
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。
引き続き9章1節 贖罪の原理に対する自我の恐れ。おもにテキスト9章7節からの引用をベースとしている。
いざまとめようとすると、これもこれも前に言ったことじゃん、となってしまう。シンフォニーというとおり(シンフォニーのことを知らないけれど)微妙に視点や表現を変えながら同じテーマが繰り返し述べられているから、なんかいっつも同じこと書いてるな~となる。
おおもと
これも繰り返しになるが…。
「小さな狂った想念(tiny mad idea)」が生じたか…という瞬間、私たちは自我を選んだ。そして分離をゲンジツのものとした。
自我は擬人化されてはいるが、私たちの心の中の「分離を信じる信念」である。
自我は、常に(いつか私たちが自我を選ぶことを止めて違うものを選んでしまうのでは…と)私たちの選び直しを恐れている。私たちが信じなければ幻想は消えてしまうからだ。
選択を行うのは私たちの心の中の「決断の主体」。
だから、自我は決してその存在を私たちに意識させたり心に近づかせたりしてはいけないと思っている。
それが「マインドレス化計画」だった。
そして、私たちに心があることを忘れさせ心に近づけないためのしくみが、この世界であり個々の肉体だ。
自我の疑り深さと凶暴性
「(前略)自我はあなたが何であるかに気づいていない。自我の知覚は実に変わりやすいため、自分が知覚するもの一切をまったく信用していない。したがって自我は、よくしても疑ぐり深く、悪くすれば凶暴となり得る。(後略)」(T-9.Ⅶ.3:4-10)
自我は私たちが実は選択の力を持っていると知っている。だから疑心暗鬼なのだ。
自我が作った世界もまた憎しみに満ちており凶暴だ。
「憎しみと凶暴さの原動力を見極めることが非常に重要です。」とワプニック先生。
この世界が疑心暗鬼で凶暴なのは自我の防衛なのだという。言い換えればそこに私たちの意識を釘付けにしておくための目くらましなのだ。
私たちは世界の性質のせいで自分が動揺しているのだと思っている。しかし原因は内なる罪悪感だ。
心の中の二つの評価
「だとすれば、あなたの心の中にはあなた自身についての二つの相容れない評価があり、その両方が共に真実ではあり得ない。」(T-9.Ⅶ.4:1)
「これらの評価がどれほど完全に異なったものであるか、あなたはまだ気がついていない。なぜなら、聖霊が本当のあなたをどれほど高貴なものとして知覚しているか、あなたは理解していないからである。」(T-9.Ⅶ.4:2)
「この両方が共に真実ではありえないことが自我にとって恐怖なのは、一方を選択することは一方を否定することになるからで、これは正しい心バージョンの『どちらか一方』です。」とワプニック先生。
正しい評価が難しいのは、自分の肉体から離れた自己認識がなかなかできないからだ。なにせずっと肉体だと思ってきたのだから。
私たちが心に近づけば自我の攻撃は強まる
「したがって、あなたが愛をもって応答するとき、自我があなたを攻撃する可能性は高まる。なぜなら、自我はあなたを愛のない存在だと評価しているのに、あなたはその判断に逆らっているからである。あなたの動機が、自我が知覚しているあなたとは明らかにそぐわないものになるやいなや、自我はそれを攻撃する。」(T-9.Ⅶ.4:5-9)
私たちの学習が進み私たちが心に近づくと自我の攻撃性は強まるのだという。
自我(私たちの自我と一体化した部分)が恐怖を抱くからだ。恐怖と攻撃は表裏一体なのだ。
イエスは常にコースでずっと私たちの決断の主体に話しかけている。
それを聞いて私たちが心を変えてしまうことを恐れ、「お前は愛なんかじゃない、罪で恐怖で肉体だ。」と説得にかかる。
攻撃性が自己正当化して他者に向かう場合もあれば、自分に向かい肉体の病気や事故、失業などを引き起こす場合もある。
「私たちは、自我が正しくイエスが間違っていることを証明するためには何でもするのです。これが、ワークブックの重要なレッスン『病気は真理に対抗する防衛である。(W-pI.136)』のメッセージです。」
こういった自我の思考回路を理解しておくことが、起こり得ることに対する心の準備になるのだと説明されている。
さらに学習が深まると自我の妨害攻勢は派手になる。
「決断の主体がもつ力に意識的になると恐怖心は強まり囁き声が聞こえます。『このままでは神に滅ぼされ忘却の彼方に飛ばされ無になってしまうぞ』と。自我が自分を守って分離と特別性からなる領土を侵略させんがため大砲を持ち出すのはそのときです。」(ワプニック先生)
自我の思考システムを外から見る重要性
「狂気の信念体系を、その内側から評価することは不可能である。それが占める範囲のゆえに、これが不可能となっている。あなたにできることは、ただその狂気の思考体系を超えて、正気が存在する地点から振り返り、正気と狂気の対照性を見ることだけである。(後略)」(T-9.Ⅶ.6:1-4)
「正気が存在する地点」とは決断の主体のことを話しているのだという。
自我の思考システムの内側から正しく評価することはできない。決断の主体に立てば正しい心を持った観察者になれイエスとともに自我の思考システムの狂気を見ることになる。
フロイトは自我(フロイトが心と呼んだもの)の狂気を知ってはいたが、内側からしか理解していなかったのでそこから逃れる方法は知らなかったという。
しかし脱出の希望はある。テキストでは「戦場を超えたところ(T-23.Ⅳ)」に引き上げられるプロセスとして説明されている。
自我から一歩身を引いて聖霊とともに自我を見ることが大事なのだ。
卑小さを誰が許可したのか
「神の壮大さを内にもちながら、あなたは卑小であることを選び、自分の卑小さを嘆くという選択をしている。この選択を命じた思考体系の内側では、悲嘆は避けられない。そこではあなたの卑小さは当然のものとされ、あなたは『誰がそれを認可したのか』と問うことはない。」(T-9.Ⅶ.6:5-7)
卑小さとは、自らが犯した罪によって罪悪感に苛まれた生物だと見なし天から罰せられることに恐れおののいている信念なのだという。それはアイデンティになっている。
ただ、この思考は自我の思考システム内でのみ通用するものだ。
システム外ではまったく意味をなさない。
イエスは、「誰がそれを認可したのか」と決断の主体に話しかけている。
私たちは卑小さを与えられたかもしれないが、与えたのもまた自分自身なのだ。
この質問の答えは自我の思考システム内にはないので、この問いは自我の思考システムに疑念を抱かせるものなのだという。
自分の卑小さに疑いを持つことが、自我の思考システムの土台を揺るがす。
自我は疑問を抱かせないために私たちのマインドレス化に努め、心の内側に意識を向けないようにしている。
狂気の中からは選択の可能性が見えないからこそ、イエスとともに自我を超えた視座に立ちそこから見ることの重要性を説いている。
感想とも言えないくらいの感想
あらましを書くことではなく自分が読んでどう感じたかが大事なのだけど、ざっくりまとめたところでいつも精魂尽きてしまう。
思うところはいろいろあるはずなのだけど。心がはたらかない。これもマインドレス化のなせる技か。
そういえば、昔ほど自虐を言わなくなったかな、と思う。
自虐=卑小さに通じるところがあるかな。
自虐話は一見謙遜風だけど自分の特別性に入れ込んでいるようで自我っぽいと思うようになった。実際どうであれわざわざ自分を卑下することはないのだ。
もっといくとブログを書くこともしなくてよくなるのかな。
(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)