2021-05-27
イエスとの関係性、その重要性
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。8章6節、イエスから。
本節は奇跡講座テキスト8章4節と5節からの引用を用い、イエスが歌う一体性の歌を題材にイエスとの関係性とその重要性に目を向けている。今回は、二つに分けた後半、5節からの引用箇所だ。
イエスに加わる(join with Jesus)こととは、自分が選んで一体化している「特別の利益」「排他的な思考システム」から、「共有の利益」「包括的思考システム」へと移行することだ。
それによって私たちは狂気を、また狂気から目覚める必要性をも共有しているのだという認識に至る。
私たちが目指すのは、その認識を常に持ち続けていることなのだという。
イエスと私たちの間の「問題」
「あなたが私とひとつになるとき、あなたは自我をもたずにそうしている。なぜなら、私は自分の中の自我を放棄したので、あなたの自我と結びつくことはできないからである。したがって、私たちの融合は、あなたの中の自我を放棄する方法である。私たち両方の中にある真理は、自我を超えたものである。」(T-8.Ⅴ.4:1-3)
「言うまでもなく、これが私たちがイエスとの間に問題を抱えている理由です。」とワプニック先生。
つまり、イエスとの融合は自分の中の自我を放棄する道筋となるが、私たちは自我ともイエスともつながっていたいと思っているから、そこに葛藤が生じる。
「あなたのための神の意志を、あなたは知りたいだろうか。あなたに代わってそれを知っている私にそれを聞きなさい。そうすれば、あなたはそれを見つけるだろう。神が私に何も拒まないのと同じように、私もあなたに何も拒まない。」(T-8.Ⅴ.5:1-3)
このイエスの要請はとてもシンプルだが、私たちには恐れがあるため事は簡単には進まない。
イエスに助けを求めることは、自我の思考システムとそこにある私たちの特別性を手放すことを意味する。
そこには常に抵抗と葛藤が伴う。そしてイエスに近づくことは、その葛藤をさらに深めるのだ。
DNAに組み込まれている
「私たちの旅は、単に、私たちの生家である神のもとに戻る旅にすぎない。平安への道の途中で恐れが侵入してくるときにはいつでも、その理由は、自我が私たちと一緒にその旅に加わろうとしてそれができないからである。敗北を感知して怒った自我は、自我が拒絶されたと見なし、報復しようとする。」(T-8.Ⅴ.5:4-6)
「自我が報復しようとする」とあるが、実際に自我が「何かする」わけではないという。これは、私たちが自我の思考システムを取り除く過程で感じる恐怖の表現なのだ。
自我とは、自らの特別性を失うことを恐れている自己から分離した影の部分に過ぎない。
私たちが立つこの地、宇宙、個としての生命体は、神からの分離という幻想に由来する「神の愛は恐るるべきもの」という考えに基づいている。
「このおぞましい想念は、私たちの遺伝子、つまりDNAに組み込まれています。いわば、『(贖罪を)Do Not Accept-受け入れない』のです。」(ワプニック先生)
自分では意識できていなくても、学習を進めるうえで心の奥に神への恐れ、イエスやコースへの抵抗感というものがあるのだと心に留めておくことが極めて重要なのだ…と、ここでも言及されている。
両方の手を同時には取れない
「あなたはその報復によって傷つくことはない。私があなたと共に居るからである。」(T-8.Ⅴ.5:7)
イエスは特別性を手放すシンボル的存在なので、私たちは本音ではイエスと一緒にいたくない。
つまり私たちサイドからは「イエスこそ問題」に見える。
私たちは自分の特別性を死守したいと願っている。そこでたとえ自我の世界の痛みを感じることになったとしても、人に責任を転嫁し赦さない心を正当化してしまう。
「この旅において、あなたは、自我ではなく私を、旅の仲間に選んだ。両方にしがみつこうとしてはいけない。そのようなことをすれば、あなたは二つの異なった方向に進もうとして、道に迷うことになる。」(T-8.Ⅴ.5:8-9)
本章の冒頭でも論じたとおり、イエス(聖霊)と自我は相互排他的でどちらかしか選べない。
「つまり、イエスを選ぶとすればそこに自我はなく、その逆もしかりです。両方の手を同時に取ることができると思っているなら、それは妄想です。」
聖霊の方向へとイエスの手を取る
「自我の道は私の道ではないが、それはあなたの道でもない。聖霊はすべての心のために一つの方向をもっており、聖霊が私に教えてくれた方向があなたの方向でもある。」(T-8.Ⅴ.5:8-9)
「私は自我を超えているので、あなたの前を行く。だから、手を伸ばして私の手を取りなさい。あなたは自我を超えたいと望んでいるからである。」(T-8.Ⅴ.6:7-10)
私たちが選ぶ道は、イエスと聖霊の方向だ。
イエスに自我を与えて特別性の世界に引き込むのではなく、特別性のほうをイエスに引き渡すべきだ。それには、特別性をイエスとともに見て、自分がどれだけ己の特別性ー問題点、美点、特異性などを重要視しているのか理解することを意味している。
自我と一体化している私たちにとって恐ろしく思えることは、自我が主張している神からの報復ではなく、決断の主体がその攻撃の存在を信じなくなることのほうなのだという。
イエスは私たちに自分の手を取るよう求めている。私たちがイエスの手を取らなければ、イエスが私たちを助けることができないからだ。
誰とどんな旅をするのかを決めるのは私たちなのだー。
ちょこっと感想
気づくといつも、イエスやACIMに対する(自我と一体化している私たちの)恐れについて書かれたものをまとめている気がする。
またこれかい、と思う。
それがこのコース実践の肝だからなんだろう。
最後のほうの「私たちにとって恐ろしく思えることは、自我が主張している神からの報復ではなく、決断の主体がその攻撃の存在を信じなくなることのほう」という指摘は「なるほど、深い」と感じた。
私は自分の肉体と特別性に対する執着はとても強く、やはり自我と一体化していると思う。
それでも学ぶ前は自我視点100%、聖霊0だったとしたら、今自我99.7%、聖霊0.3%くらいになれていたらいい。
ACIMを実践することはとても難しく感じているのは前よりACIMの全体像がわかってきたからか。
「象を食べる方法」(アフリカの諺)だな。
…「一口ずつ」。
(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)