2021-04-20
病気から健康、癒しへ
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の学習備忘録としてのざっくりまとめ。8章3節の続き。これが本節の最後になる。
前回は肉体から病気へとテーマが進んだ。今回はそこからさらに健康や癒しへと進む。
まず前回までに述べられていたことの繰り返しになるが、肉体はそれ自体には意義はない。聖霊、あるいは自我が目的を与える。
「自我は肉体を通して分離する。聖霊は肉体を通して他者に到達する。」(T-8.Ⅶ.2:3)が、現在は無自覚ながら自我によって与えられた目的を受け入れている。
聖霊の目的にシフトするなら、私たちは別々の肉体を持ってはいるが、心は一つの目的を共有しているのだと認識できる。
健康とは
「健康がすべてのものの自然な状態と見なされるのは、聖霊に解釈が任されているときであり、聖霊はいかなるものにも攻撃を知覚しない。健康とは、愛を持たずに肉体を用いようとするすべての試みを放棄したことの結果である。(後略)」(T-8.Ⅷ.9:8-10)
「健康とは、世界は自我を選んだ私たちの決断を表しているものだという前提を理解したうえで、聖霊を選ぶことにより心の誤りを修正するものです。」とワプニック先生。
続けて、これによって肉体症状は良くなったりならなかったりするが、これは真の健康(平和)とは無関係だという。
癒しとは
「(前略)癒しは他の誰からも訪れはしない。あなたは内なる導きを受け入れなければならない。その導きは、あなたが望んでいるものでなければならない。さもなければ、それはあなたにとって無意味である。」(T-8.Ⅳ.4:1-7)
「だからこそ、癒しとは共同作業なのである。」(T-8.Ⅳ.4:8)
癒しとは、内なる導き(聖霊)を受け入れて分離の信念を取り消すことである。繰り返しになるが、肉体のことではなく心の修正である。
癒しは分かち合う意志がなければ、与えられないし使えない。分かち合う意志がないとは、すなわち分離志向に立っているということだから。
「かなり前の方でイエスが『救済とは共同作業である(T-4.Ⅳ.8:2)』と言っていたことを思い出して下さい。」とワプニック先生。
共同作業には二つの側面がある。
一つは、イエスとの共同作業、もう一つは、兄弟との共同作業だ。
テキスト後半には「平安の箱舟には二人ずつ乗り込む(T-20.Ⅳ.6:5)」とも記述されている。
癒しは行動ではなく心の選択
「私はあなたに何をすべきかを教えることはできるが、あなたのほうは、あなたが何をすべきかを私が知っていると信じることにより、協力しなければならない。そのときにのみ、あなたの心は私に従うことを選ぶ。この選択をしていなければ、あなたが癒されることはあり得ない。なぜなら、あなたは癒しに抗う決断をしたことになり、私があなたのために下した決断を拒絶したことで、癒しが不可能となっているからである。」(T-8.Ⅳ.4:9-11)
ここで留意点として挙げられているのは、イエスが求めているのはこの世で行動面で何かをすべきだということではなく心の話だということだ。
つまり心で聖霊とイエスの贖罪を選ぶよう求められている。
別のところでは「癒しとは、病気か健康か、分裂か統一か、痛みか喜びかといった心の選択の内容だけに関わっており、自我の分離という夢の中に(真に)存在しているのは、その選択の力だけなのです。」という説明もある。
代理で選択や救済は行えない
「私の決断はあなたの決断をくつがえすことはできない。なぜなら、あなたの決断は私の決断と同じく強力だからである。(中略)私たちが共同で決断をするなら、すべてのことが可能であるが、私の決断だけであなたを助けることはできない。(後略)」(T-8.Ⅳ.5:9-14)
ここの箇所では、留意点として、イエスが私たちの代わりに選択したり救済を行うことはできないと説明がある。
私たちの心は強力であり私たち自身が選択しなくてはならない。
逆にイエスから圧力をかけられていると感じたり犠牲を求められていると感じる時は、聖霊の導きではなく自我が心の力を否定しようとしているのだという。
聖霊に肉体の癒しを求めるなかれ
「自我があなたを病気へと誘うとき、聖霊に肉体を癒してくれるように求めてはならない。なぜなら、それは単に、肉体は癒しの適切な対象だという自我の信念を受け入れることだからである。(後略)」(T-8.Ⅸ.1:1-7)
聖霊に肉体を癒してくれるよう求めることは、肉体を癒しの対象としてしまうことでありそれは自我の見方を後押しすることになる。
肉体そのものは無であり、それは罪悪感の影に過ぎない。
健康状態が私たちの関心を心に向かわせることになれば、肉体は価値あるものとなる。
病気の本質
「死に至る病も含めてあらゆる形態の病は、目覚めることに対する恐れが肉体レベルで表現されたものである。」(T-8.Ⅸ.3:2)
「それは、目覚めることへの恐れゆえに、眠りを強化しようとする試みである。これは、見る能力を無効にすることによって見ないでいようとする哀れなやり方である。」(T-8.Ⅸ.3:3-4)
あらゆるかたちの病気は、「目覚めることに対する恐れが肉体レベルで表現されたもの」だという。
そして、様々な伝統的な癒しは肉体にフォーカスすることから自我のマインドレス化を強化するものでACIMとは無関係だとある。
ただ肉体の病気が心を聖霊の視点に立ち返らせる手段となるならば、そこには意義がある。
最後に「一つの問題とひとつの解決法」(W-p1.80.1:5)とワークブックからの引用が挙げられている。誤りは自我を選ぶことで、解決法は聖霊を選ぶこと。
癒しは攻撃的な肉体と分離した自我を受け流し自我のマインドレス化戦略を取り消す。
ちょこっと感想
ACIMの病気の概念や癒しの概念はだいたい理解できたように思うけど、その病気とこの世の肉体の病気の関係が私の中ではいまいち曖昧だ。
自我の見方から聖霊の見方に修正できたら(つまり病気でなくなれば)、この世レベルの肉体状態が良くなるのか。
あるいは良くなる場合もあればそうでない場合もあるのか。
この世レベルで良くならなくても心が平穏になるのか。
まだ8章だから読み進めるうちにおいおいわかってくるかな。
慢性化した腰痛の話を同じく今腰痛治療中の友人に話したら、「まず客観的原因を突き止めなきゃ。整骨院より整形外科に行って調べるべきだよ。」と言われた。
確かに…と思った。
でも、本当の原因は心にある…か。
すぐ忘れるから最近は短く標語みたいにして言い聞かせている。「目前のすべては結果の影」と。
(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編&ワークブック編 中央ハート出版社)