2021-04-15
肉体は心の投影としてのみ存在する
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。8章3節の続き。
あまりに細かく刻みすぎだけど…、自分ができるやり方で進もうと思う。
ここでの最初の引用文は、聖書の修正箇所を示す以下の文だ。
「聖書は、『言葉(すなわち想念)が肉体となった』と述べている。厳密に言えば、これは不可能である。それは一つのレベルの現実を別なレベルの現実へと翻訳することを伴うかに見えるからである。(中略)信念による以外に、想念を肉体とすることはできない。想念は物理的なものではないからである。しかし、想念とはコミュニケーションであり、そのために肉体を使うことは可能である。これが肉体のための唯一の自然な用途である。(後略)」(T-8.Ⅶ.7)
これは、イエスが天地創造を行った神の言葉(想念)を受肉した論拠とされているヨハネの福音書の著名なプロローグを修正したものだという。
真理においては「想念はその源を離れない」(T-26.VII.4:4等)のだから、神の子は神から離れることはできない。つまり想念が肉体となることはない。肉体としてのイエスの誕生は神話の領域に留めておかねばならないという。
ワプニック先生は「肉体は、心の投影としてのみ存在するのだということを思い出してください。」と強調されている。
自我が肉体に与えた目的を否定せよ
「あなたは肉体によって制限されてはいない。そして、想念を肉体にすることはできない。だが、心が肉体を超えて進み、肉体を制限として解釈しなければ、心は肉体を通して顕現されることが可能となる。あなたが他者を、肉体へと限定されていたり、肉体によって制限されていたりするものと見なすたびに、あなたはこの制限を自分自身に課している。(後略)」(T-8.Ⅶ.14)
「(前略)兄弟を肉体と見なすとき、あなたは彼に有罪宣告をしている。なぜなら、あなたは自分自身に有罪宣告をしたからである。だが、すべての有罪宣告が実在していないとすれば―そしてそれは攻撃の一つの形態であるから実在しているはずがないが―それはもとよりいかなる結果をもたらすこともできない。」(T-8.Ⅶ.15)
肉体は心の投影であり、自我の罪悪感か、聖霊の赦しか、そのいずれかを表わす。肉体が「愛に課せられた制限」(T-18.VIII.1:1-4)とされると肉体は「中庸なもの」となる(W-pII.294)。
自我の見方に基づいた攻撃による制限は、決して平和にはつながらない。
ここでイエスが私たちに求めているのは、肉体そのものを否定することではなく、自我が肉体に与えた分離と特別性という目的を否定することだと説明されている。
私たちが救われるべきは、他者の肉体からではなく自らの分離の信念からなのだ。
自我にとって肉体は攻撃のため
「肉体に対する態度は、攻撃に対する態度でもある。あらゆるものについての自我の定義は、常に子供じみており、自我がそれを何のためのものと信じているかに基づいている。」(T-8.Ⅷ.1:1-2)
自我の肉体はすべてが攻撃という目的に関係している。というのは、肉体とは、(実際は分離していないにもかかわらず)神から分離したと思い込んでいる、攻撃の想念の投影だからだ。自我にとって、肉体の目的は攻撃を通して罪悪感を強めることだ。
かたや聖霊にとって肉体の目的は、その誤った想念を赦しによって元に戻すという心の変化を反映する。
イエスは、自我に導かれている私たちを霊的な幼児や赤ん坊のような存在として扱っている(例えば T-4.II.5:2-3; T-22.I.6:3-7)。
私たちは教師としての自我を手放し、イエスを受け入れねばならない。
感想ともいえない感想
前回のところでは、肉体自体には何の価値も意義もない、目的が肉体に意義を与える。それは、自我の目的か聖霊の目的かだ。そして、すでに私たちは無自覚ながら自我の目的を選んでいる、と学んだ。
自我にとっての肉体の目的は、他者や自分を肉体に制限して攻撃することだ。他者を攻撃することは実際には自分を攻撃することに等しい。それによってさらに罪悪感を強め結果として分離を強化してしまう。
…理屈はわかると思う。
ただ分離した個と肉体への思い入れが強い私は、やっぱり「そうは言ってもなぁ…」と思ってしまう。
この世的に見ても、肉体への賛美や健康への思い入れはますます強くなっている気がする。肉体と資本主義はなじみがいい(自我と資本主義はなじみがいい…かな?)。
ここから議論は、さらに病気と健康へと発展していくが、そこも私にとっては理解が難しいところ。ゆるゆる行こう。
(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)