2020-12-16
癒しへ
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。7章5節 赦しと癒しの続き。この節は赦しと癒しに分かれていて、今日は癒しの項へ。
「ここまで見てきたとおり、癒しは赦しと何ら変わりません。」から説明が始まる。赦しは不満の取り消し、癒しは病気の取り消しをもたらすが、不満も病気も投影された罪悪感の形態で、赦し、癒しもこれを修正するものである。
癒しは肉体的な病気とは関係ない。イエスが癒しについて話すときは決断の主体である心としての私たちに語りかけている。
神は癒しを知らない
「癒しとは、神を知らない状態にある心において、神の声と神の法則がもたらす結果である。その状態は神には知られざるものであり、したがって存在しないが、眠れる者たちにはその自覚がない。自覚がないので、彼らは知ってはいない。」(T-7.IV.1: 6-8)
「イエスは改めて、ここ(この世)ではすべてのものが現実ではないことを明言しています。すなわち、神は分離のことも、この世界のことも、病気も赦しも癒しも知らないのです。」とワプニック先生。現実ではないものを神が知るということは、現実でないものに現実性を与えてしまうことだから、と。
言うまでもないことだが、「神が世界を創った」とする聖書の世界観とはまったく違う。聖書の考えは罪をリアルにしている点で自我の思考と馴染む。
癒しと神は直接的には関係ないが、それでも癒しは天国の全一性を反映しているので、間接的には神からもたらされているという。
癒しにも難しさの序列はない
「聖霊が喚起する奇跡には、難しさの序列はあり得ない。なぜなら、被造物はどの部分もすべてひとつのレベルに属するからである。このようであることが神の意志であり、あなたの意志でもある。神の法則がこのことを確立しており、聖霊がそれをあなたに思い出させる。あなたが癒えるとき、あなたは神の法則を思い出しており、自我の法則を忘れている。」(T-7.IV.2:3-6)
奇跡にも癒しにも難しさの序列はない。
というのは、問題とは私たちが自我に頼ったことで、その解決策は自我を選ばないこと、それだけだから。
この世で現れている不安や痛み、恐怖がどんなレベルのものであろうと、元の原因と解決策は同じ。
病気は、自分の痛み(罪悪感)を、自分の心以外の誰かや何かのせいにする方法なのだという。
「癒すことによって、あなたは全一性について学び、全一性について学ぶことによって、あなたは神を思い出すことを学ぶ。あなたは神を忘れてしまったが、聖霊は、あなたの忘却は思い出す方法へと翻訳されなければならないと理解している。」(T-7.IV.4:3-4)
これは、「聖霊は自我が作った道具を自我の教えを捨てる道具と変える」というACIM全体を通じた重要テーマについて述べられたものだ。
癒すときに癒される
「あなたは癒すときに癒される。なぜなら、聖霊は癒しにおいて、難しさの序列を見ることはないからである。癒しは、一なる子をひとつのものとして知覚する唯一の方法であるから、相違への信念を取り消す方法である。」(T-7.IV.5:4-5)
「『あなたは癒すときに癒される』というのは、『あなたは教えるときに学ぶ』というのと同じです。『与えることと受け取ることは同じ』であり、『想念はその源を離れない』のですから。」(ワプニック先生)
「聖霊から学ぶと、病気は自我を選んだ狂った選択にだけあるので、癒されるのは私たちの心をおいて他にはないことが理解できます。」(同)
この一節のキーワードは、「相違」と「ひとつのものとして」だという。赦しのところでも述べられていたが、「相違」への信念こそ自我の思考システムの根幹なのだ。
別々の利益への信念を取り消していくことから、他者の犠牲のもとで自分が幸せになれるなどということはありえないと気づくことができる。
そして、自我の特別性や個々の利益を選ばず、共有するひとつの利益に意識を向けることができるなら、たとえこの世にあっても一体性の反映を経験できるのだと述べられている。
癒しは病気が幻想だと暴く
「一貫性のないレッスンは、教えることにおいても学ぶことにおいてもうまくいかない。もしもあなたが病気と癒しの両方を教えるなら、あなたは教師としても学ぶ者としても拙劣である。」(T-7.V.2:3-7)
この世では病気も癒しも存在しているかのようだが、両方存在することはありえないとワプニック先生。
「癒しは単に病気が幻想だと明るみに出しているだけで、心を癒すことは肉体とはまったく無関係です。すべては心の中で起こることであり、肉体は病気になることも癒されることもないということを思い出してください。」
ただこれは、この世で個として生きていると思っている私たちが受け入れるのは難しいともおっしゃっている。
ここからまだ癒しについての議論が続く。
ちょこっと感想
「癒し」「病気」という言葉は、この世で一般的に使われている言葉だから、これかを肉体に関係ないこととして捉えるのにまず意識転換が要る。この世の言葉のイメージに引きずられてしまう。
心が病んでいてそれを癒すおはなしだと思うけど、すっかり病んでいる張本人が心を用いてではなく字面から理解しようとしているのだから、文字を打っていても核心部分にはいけないもどかしさがある。
机上でACIMを理解しようとしても、やっぱり「畳の上の水練」だ。
畳の上では、バタフライをいい感じにマスターできたような気分でいるけど、実情は、まだ水に顔を濡らしただけで大騒ぎしている。