2020-12-13
前説
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。7章5節 赦しと癒しへ。ちょこっとずつ刻んでいこうと思う。
本節は「さあ、自我のマインドレス化戦略に対する答えについて話す準備が整いました。」というワプニック先生の言葉から始まる。
この節は、「赦し」の部分と「癒し」の部分に分かれているが、その前に短い説明がある。
そこには、赦しも癒しも、この世という悪夢を幸せな夢へと変えるもので、それは行動とは関係ない。肉体とも関係ない。一般には赦しは不満の取り消し、癒しは病気の取り消しをもたらすが、不満も病気も投影された罪悪感の一つの形態に過ぎず、その取り消しのプロセスは同じ。心の中の分離という考えを修正することだと記されている。
そこでは視点を、肉体から心へ、夢の登場人物から夢見者へと移行させる。
赦しの土台は私たちの共通性
「戦っていないあなたは兄弟を探すべきであり、あなたの目に入るすべての者たちを兄弟と認識しなければならない。なぜなら、対等な者たちだけに平安があるからである。」(T-7.III.3:2)
「これは、自我が生じることとなった、神か、分離した神の子か『二つに一つ』という自我の根本原理を取り消します。」とワプニック先生。
この世の根っこにある想念は「父か子か」で、この世は「父と子は違う」という「相違」が投影された世界なのだという。だから、私たちは違いや区別に目を向けがちだ。
しかし、私たちのアイデンティティの本質はその共通性にあるのだと説明されている。
「赦し」という概念がACIMテキストで紹介されるのは9章で、この節では赦しの概念の下地となる共通性や平等性の説明に主眼が置かれている。
「罪悪感」も共有
そもそも私たちがニンゲン(肉体)として生まれてきたということは、自我の戦略に乗っかったものであり、この世の二大目的は、
①私たちをマインドレスなままにしておくこと
②自己の罪を断片化した別の肉体に投影すること
にある。そして、②は神の子の本質である「同質性」を否定したものだという。
ただ実際に罪悪感は取り消されておらず、実は罪悪感もまた私たちが共有する一つのものなのだ。
競争の根源
「対等な神の子らは一切を有しているので、競うことはできない。」(T-7.III.3:3)
競争は、分離と差異の世界のもので、そこでこそ意味を持つ。
「だが、もし彼らが自分の兄弟の誰かを、自分と完全に対等ではないものとして知覚するなら、競うという考えが彼らの心に入り込んだことになる。この考えに対して警戒する必要を過小評価してはならない。なぜなら、あなたの葛藤のすべてはそこから生じるからである。」(T-7.III.3:4-5)
誤った分離の信念から、罪悪感と無垢性の喪失が経験される。喪失は、7章3節でも触れられたように「剥奪感の法則」として体験される。「(無垢性を)なくしたのは、誰かが奪ったからだ」というものだ。
そして、この奪われた、奪い返す…が、競争の根源なのだという。
ワプニック先生は「イエスの教えにおいて、競争という概念がいかに重要か明らかであり、それに対して警戒する必要を過小評価してはなりません。」と強調されている。
競争はさかのぼれば、私たちが神を打ち負かしたという考えに行きつく。そして、その罪悪感と恐れがこの世をもたらした。
この世には皆に共通の権威のテーマもある。これは、権威(神)が私たちのものを奪い取るだろうという考えに基づく。ここでワプニック先生は、権威のテーマとして私たちが皆幼い頃に両親に抱いたであろう“不満”を例示されている。
戦争の原因
「それこそが、衝突する利害というものがあり得るという信念であり、したがって、あなたはあり得ないことを真実として受け入れていることになる。」(T-7.III.3:6)
私たちは、皆「勝ちたい」「コントロールしたい」「奪いたい」といった他者の利益とは相反する個の利益を持っている。
しかしこれは自我の「何かが欠けている」という欠乏の想念から見ているからだ。
したがってこの世では必要が満たされることはなく常に他者から奪わなくてはならない。
「これがすべての戦争の原点ですが、突き詰めていくと天然資源ではなく欠乏という想念に関係しています。この想念に気づいてこれを取り消さなければ、内なる平安にも外の世界の平和にも希望はありません。」(ワプニック先生)
赦しは、単一の利益の原理に基づき、「衝突する利害」という概念を取り消す。私たちはひとつ。本来勝ち負けはない。
赦しは愛の包括性にもとづく
「拒否はそれ自体では何の力もないが、あなたはそれに自分の心の力を加えることができ、その力には限界がない。あなたが実相を拒否するためにその力を使うなら、実相はあなたから消え去る。」(T-7.VII.1: 5-6)
これは贖罪の原理を表したものだという。
実相を見ない選択はできるが、実相が消えるわけではない。
「あなたが兄弟に祝福を拒むときはいつでも、あなた自身が、自分から何かが奪われているように感じる。なぜなら、拒否は愛と同じく全的なものだからである。一なる子の一部だけを愛することが不可能であるのと同じく、その一部だけを拒むことも不可能である。」(T-7.VII.1: 1-2)
「実相を部分的に賞美することはできない。だからこそ、その一部でも拒否することは、あなたがその全体についての自覚を失ったことを意味するのである。」(T-7.VII.1: 7-8)
赦しは愛の包括性に基づく。
私たちは欠乏を信じているからこそ、祝福を奪われていると感じる。
一なる子はひとり。そこから誰かを除外することはできない。神の子は完全に一つで完全に全体だ。
もし他者の欠点に不満を持つなら、それは実際には、自分自身を攻撃している。攻撃的な想念は表現されようがされまいが、自分自身に向けられている。
ちょこっと感想
要約と言いつつ網羅したくなるクセがあって、あれやこれや書いた結果逆にわかりにくくしちゃっている、、。
ここでは、主に、赦しのベースとなる、神の子の同質性と包括性に言及されている。
間違った前提から導かれる欠乏の法則が剥奪感の法則につながり、それが競争、さらに戦争へと発展する。戦争は天然資源の問題ではなく、欠乏の想念の原因と…。
ACIMを通して見ると、この世のモチベーション、からくりがよくわかる、と思う。
だけど、もし自分が渦中にいたら巻き込まれずに、欠乏の想念の取り消しに意識を集中できるかどうか…。
ACIMがもっと普及したとしても、ACIMの教師がワイドショーとかにでて自説を語るようになる世界はこないだろうなぁ、と思う。批判が殺到しそうだ(でもYouTubeならありかな)。