2020-12-11
自我の論理的説得
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。7章4節 自我の戦略①の続き。自我の主張を記した引用文から。
「私が繰り返し強調してきたように、自我は自分が神を攻撃できると確かに信じており、あなたがこれを行ったのだと、あなたを説得しようとしている。」(T-7.VI.8:1)
ここでイエスは「“私たちが自我を選んだ存在論上の瞬間”へと連れていきます。」とワプニック先生。
それは、自我が「お前は自分の源を攻撃して、今ある自己を獲得したんだ」と説いた瞬間でもあり、私たちの心に、罪ー罪悪感ー恐怖の三位一体が生じた瞬間でもある。
「心が攻撃できないというのであれば、自我はこの上なく論理的に、あなたは肉体に違いないという信念へと進んでいく。あなたをありのままに見ないことにより、自我は自らを望む通りのものとして見ることができる。」(T-7.VI.8:2-3)
自我は私たちに、お前は肉体だと言う。だから攻撃も肉体のもので、肉体である私たちは攻撃可能だ。そして、私たちが攻撃するのは自己防衛からで、その原因は常に他の肉体にあるのだ、と説く。
自我の望み
「自我は自分の弱さを自覚しているので、あなたからの忠誠を望んではいるが、それは真にありのままのあなたからの忠誠ではない。」(T-7.VI.8:4)
「すなわち、自我はあなたの心を自我自身の妄想的システムの中に組み込むことを望んでいる。なぜなら、そうしなければ、あなたの理解の光がそれを一掃してしまうからである。」(T-7.VI.8:5)
自我自体には存在も力もなく、それは私たちの誤った信念にすぎない。
だからこそ自我は、本来は心そのものである私たちに心があると気づかせることなく、自我の妄想システムに取り込むことを望んでいる。そのシステムには、個としての肉体が大きな役割を担っている。
なぜ分離という狂気が存続し続けているのか
「あなたは自我の論法をその論理的帰結に至るまで押し進めてきたかもしれないが、その帰結とは、あらゆるものごとについての完全な混乱である。(中略)その中の一部を少しでも望むとしたら、その唯一の理由は、あなたがその全体を見ていないからである。あなたは自我の前提は喜んで見ようとするが、その論理的帰結を見ようとはしない。」(T-7.X.1:2-5)
なぜ分離という狂気が存続し続けているのかー。
それは、自我がもたらしているものを誰もちゃんとは見ていないからだという。
それは、「互いに交流し苦しみやがては死ぬリアルな肉体でいっぱいのリアルな世界」だ。ここから、私たちが生きる世界がいかに「神からの分離は現実だ」とする考えに基づいているかを見て理解するようにと要請されている。
ちゃんと見れば、絶対に選ばないはずだ。だからこそイエスのACIMは、自我のやり方をこれでもかというくらい詳らかにして見せてくれているのだ。
ここで「例えば」としてワプニック先生は、「善人と悪人がいるという考えは、差別化と特別性という反映しています。」とおっしゃっている。そして難しさの序列への信念は生来の一体性という性質とは相容れないと述べられている。
2つの国を公正に判断せよ
「あなたが作り出した王国について考え、その真価を公正に判断してみなさい。それは、神の子供の家とするにふさわしいだろうか。それは彼の平安を守り、彼の上に愛を輝かせるだろうか。」(T-7.XI.3:1-3)
正しく選ぶにはそれぞれの国の本質に気づいている必要がある。イエスは、くりかえし2つの選択肢ー聖霊と自我、天国と地獄、赦しと裁きーを比較して見るように求めている。
また、誤った選択において支払うことになる代償(その行きつく先)も見据えなければならないとされている。
聖体拝領ー心と肉体の混同の例
ここで、次節に進む前に「心と肉体の混同」を表現している一節を見ましょう、とワプニック先生。
それは、イエスがカトリック教義の聖体拝領について語っている箇所だ(ACIMで2箇所あるが、そのうちの一つ)。
カトリック教会と米国聖公会によれば、ミサの中でパンとぶどう酒が「化体」を経て文字通りイエスの肉と血となるとされている。
これについてイエスは以下のように述べている。
「私は聖餐で私の肉体を分かち合いたいとは思わない。なぜなら、それは無を分かち合うことだからである。私が至聖なる父の至聖なる子供たちと、幻想を分かち合おうとするだろうか。」(T-7.Ⅴ.10:7-8)
「だが、私の心ならば、確かにあなたと分かち合いたいと思っている。なぜなら、私たちはひとつの心に属しており、その心は私たちのものだからである。この心だけをあらゆる場所に見なさい。これだけがあらゆる所にあり、あらゆるものの中にあるからである。」(T-7.Ⅴ.10:9-10)
「何が起こったのかというと、教会がイエスの愛をイエスの肉体に投影し、それによってイエスの心ではなくイエスの肉体が聖なるものと見なされるようになったのです。」とワプニック先生。
しかもこれは罪を犯していないカトリック信者だけが受けることができる儀式だという。
「これは、心と肉体の混同を見事に表しています。」(ワプニック先生)
ACIMの観点から見ればばかげたようなことにも思えるが、二千年以上にわたり多くの人に支持されてきた事実は重い。
「これが保たれてきたのは、問題とその解決策がないところ(肉体)に問題と解決策を見るという自我の戦略にまんまとはまり込み、心の決断が決して修正され得ないからです。」(同)
イエスが伝えたいことは、間違った心を超えたところに贖罪の原理がある。イエスの中に愛の臨在を見ることを選びなさい。そうすればそれがすべてに波及していくということだ。
ちょこっと感想
「聖体拝領」の肉体と心の混同の例は興味深かった。自我への信仰、肉体に対する信仰はやはり根強い。私だけではないのだ。
また、「善人と悪人がいるという考え自体が自我のもの」という箇所も興味を引いた。私たちはなんだかんだ言って勧善懲悪のお話が好きだ。「水戸黄門」のような単純な勧善懲悪ものには飽きているけど、ひねったものや、いったいどっちが勝つ?とハラハラさせされられるものにはやっぱり惹きつけられる。
それから、「なぜずっと自我を選び続けているのか」というと、「それをちゃんと見ていないから」という説明は、なるほどと思った。
私たちは、回し車のハツカネズミのように自我システムの一部となってこれを動かし続けている。
やっぱり自分だけで気づいて修正するのは難しい。
ただ求められているのは、世界中の世直しではなく自分の心を変えること…。
くりかえし学んでいれば、少しずつでも変わっていけるかもしれない。
書き忘れていたけれど前回のところで、「ACIMを含め、この世の何かあるいは誰かに希望を抱くことは、問題及びその答えの源である心の決定力に私たちを接近させないようにする自我の防衛の一部です。」という部分、あえて「ACIMを含め」と書かれているところが興味深かった。
ACIMに希望を抱くことは、自我の防衛戦略の一部…
ACIMに希望を持つのではなく静かに心を見つめる…のかな?