自我のやり方でACIM習得を図る?

2020-12-01

テキストのある箇所が気になった

昨日、「なんか不調だ」とブログに書いた時には不調の一番深いところは脱せていたかも。そのことをブログを書けたのだから。

7月にACIMワークブックを終えてから、テキストの一節を読みながらプチ瞑想をしている。今朝は、テキスト7章11節を読んだ。

その一節にはこんな箇所があった。

恩寵は、神の一人ひとりの自然な状態である。彼が恩寵の状態に居ないとき、彼は自分の自然な環境の外にあり、うまく機能しない。彼が行うことのすべてが疲労をもたらすものとなる。

なぜなら、彼が創造されたのは、彼が自分で作り出した環境の中で過ごすことではないからである。

したがって、彼はそれに順応できず、それを彼に順応させることもできない。それを試みることは無意味である。

神の子は、自分が神と共に居ることを知っているときにのみ、幸せである。それだけが、彼が疲労を経験することのない環境である。なぜなら、それが彼の属する場所だからである。」(T-7.Ⅺ.2:91-7)

ここを読んで、私が低調だと感じているのは、ACIMを自分の、つまり自我のやり方でコントロールして“習得”しようとしているからなのかな、と思った。

別にワプニック先生解説本を「山登りのビギナーが無理めの山を駆け足で登っている感覚」(11月28日日記より)で、やる必要はないのだ。急がなきゃ、と思うのは自我だ。

楽しく悠々自適にやっていいんだ。「無理めの山を駆け足で登らなくてはならない」と感じていたとしたら、どこか何か違いを意識して何らか判断しているからだろう。

にっちもさっちも

そもそも、『神の使者』を読んで奇跡講座を学びたいと思った時点でも、ACIMを自分の都合のいいように解釈し、自我視点で「学びたい」と思っていたのかもしれない。

それが、ワプニック先生の詳細丁寧な解説を読むにつれ、本当に言わんとしていることが「うっすら」わかってきた。

そこで、にっちもさっちもいかなくなった。

それが本当のところなのかもしれない。

正直、絶望しているのだ。

個としての自分は捨てられない…。ACIMを自分なりに学ぼうとしていたけれど、道筋はズレてる。気づけばまったく自我じゃん!

かといって自我として生きるにしても無力だ

…と。

いつもは、そんな思いを感じる余裕はなかったのだ。

訳とまとめ、先を進むことに忙しかったから。

忙しくするな、何でもやっていい

で、今日のワーク(プチ瞑想)で感じたことは…

埋め込むな(忙しくするな)。

何でもやりたいことを、やっていい、

だった。

これもまた間違いかもしれないけど、とりあえず、そうかなと思っている。

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