2020-11-21
赤瀬川原平作『宇宙の缶詰』
先月末「投影とは… ユルい春子さんからのメモ」という日記を書いた。春子さんは、「自分のフィルターをかけて外の世界を見ている」=「裏返すと、自分の内面が、外側に反映されている」=「投影」を自分の体験に絡めて説明されていた。
私は、春子さんの文を書き写しながら、ぼんやりとある芸術作品を思い出していた(最近、サバ缶をよく食べるせいか脳がやや回復?いろんなことを思い出すのだ)。
でも、誰が作ったものだったのか、何で見たのか思い出せなかった。なぜそれを思い出したのかもわからなかった。で、インターネットでいろいろ検索してた。
…で、見つかった!
それは、赤瀬川原平さんの『宇宙の缶詰』だった。
また『宇宙の缶詰』について書かれたものを探し、図書館で『芸術言論』(赤瀬川原平著)見つけた。
『宇宙の缶詰』のつくりかた
宇宙の缶詰の作り方は以下のとおり(『芸術言論』より)。
①缶詰を買ってくる(蟹缶)
②缶切りで蓋を開けて中身を取り出す(食べる)
③中をキレイに洗って乾かす
④外側の蟹のレッテルを剥がし、その裏に接着剤を塗り直して、缶の内側に貼る。
⑤蓋を閉めてハンダ付け密封する。
…と、「その瞬間に、この私たちの宇宙はその缶の内側として、包み込まれる。この宇宙は密封されて、その外側に蟹のレッテルを貼られたわけだ。」と赤瀬川さん。缶の中に缶の外側、つまり宇宙を閉じ込めたのだ。
わかるような、わからないような、でもなんとなくわかる話。
私は、このお話を、春子さんの投影から連想したのだった。
内側にどうしても残ってしまう包み残し
赤瀬川さんの論理にはこの先がある。
「じつはこの宇宙の梱包にはほんの少しだけ包み残しができてしまう。その缶詰の缶の内側、理論上では外側であるが、その小さな缶空間だけ包めない宇宙が残る。」
そうだよねぇ。外側全部包み込んだつもりでも、缶の内側(理屈では外側)が包み残されてしまうものね~
赤瀬川さんは、それを「自我」だとおっしゃる。以下赤瀬川さんの言葉。
「つまり宇宙の梱包にはどうしてもそのわずかな缶空間が不可欠であり、いわばそれを宇宙に対する認識主体、すなわち一つの自我として考えることができるのではないか。この缶詰をモデルとして、人間もまた梱包体であることを思い知るのだ。人間は中に内宇宙を包み込んだ缶詰的な存在である。」
さらに続く。
「人間が外宇宙を知覚するのは、その人が内宇宙の梱包体であることによる。その内宇宙を包む作業の持続が人間の存在であり、その持続を人生という。
私たちはいずれ内宇宙を包む作業の持続を解くことによって、この宇宙の一点に釘付けされた釘を抜かれて、この関係を抜け出していく。」
なんか…哲学的だ。
内宇宙を包む作業の持続を解くことによって、この関係を抜け出ていく…。これは、もしや…赦しのプロセスのことを言っているのではないか。
分離した自我の数だけ缶詰がいる!?
赤瀬川さんの世界観はまだ続く。
「ところでこの宇宙の缶詰は蟹缶一つだけでなく、鮭缶でも作り、トウモロコシ缶でも作ったわけで、その点が重要である。つまり蟹缶は宇宙のほとんどを梱包しながら、そこにわずかな包み残しができた。しかしそれはもう一つの鮭缶によって宇宙もろとも包まれている。そしてその鮭缶にも宇宙の包み残しはあるのだけど、それはすでに蟹缶によって包まれているのだ。
つまりAはBを包みながら、Bから包まれてもいる。同様にCDEがあるのであって、この宇宙はわずかな包み残しを別の缶が補いながら、いまは多重に包み込まれているわけである。」
ストンと理解はできないけれど、なんとなく多重になっている意識の世界がおもしろい。
自我がたくさんあるなら、たくさん缶詰があって、分離した自我の数だけ缶詰が要る。宇宙の缶詰の話は、意外や、ゲンジツのモデルと近いのかもしれない。
そこから、そういえば、さくらももこさんは『もものかんづめ』ってエッセイ書いてたな、さくらさんは、桃缶だったのか。。。などと連想していた。じゃあ、私は何缶ー?
浮かんだのは、猫缶だった。ああ、ネコ…。
でも、ちょっと待った。
宇宙の缶詰を作るには、ラベルは紙で、きれいに剥がせるものでなくてはならない。
最近は缶に直接印刷されているものが多くて、紙のラベルのは1万円超の蟹缶しかないとか。宇宙を梱包しにくい時代になったのかな。
ネットで検索しているうちに、『宇宙の缶詰』を自作していた人にも何人か行き当たった。そそられるのわかるけど、実際に作るってすごいな。後の人はシーチキンで作っていた。