2020-11-19
「私」の世界
昨日書いていたのは、奇跡講座のことでもない葛藤だった。
「私は、へんな観念のゲームにひとりはまり込んでいるんじゃないか。このままでは抜け出せず大変なことになるんじゃないか」と。
「私」という見え方から見ているものは、全部自我の世界のものだ。
私は「私」から見ている世界が好きなのだ。なんか実在してるって感じがして楽しいから。幻想だって言われているけど。
とりあえず、放っておこう。
「私」には好きに迷ったり喘いだりしてもらえばいい。ある意味実験なのだから。
愛とは
奇跡講座の勉強をしてよかったと思うひとつは、「愛」と「特別な愛」はちがうと教えてもらったことだ。
愛…って、私の実人生ではなじみのない言葉だ。
愛しています、と言ったことも言われたこともない気がする。
ほぼ「好き」でまかなえる。
それはドラマで見るものだ。
そして、それはまさしく特別な愛だ。
だから、愛とはずっと特別な愛のことだと思っていた。
だれかに属したら、その人だけのものになるし執着や束縛もし合う。その愛は、互いを特別な存在として大切にする。愛の必要を満たすために頑張るのだろうし当然期待もする。愛は甘くてやっかいではかない(それは恋か)。
テレビで見る愛はそんなふうに描かれていた(…気がする)。
でもそれはちがうのだという。
だとしたら、真の愛とはどんなものなんだろう。
それがわからない。
特別な愛だってぶち壊してしまうような私だ。
聖霊はすべての人を平等に愛す
いつも『神の使者』に戻ってしまうけど、思い出すのは4章で、ゲイリーが「だって、両親は懐かしいし、両親の思い出は大切だもの。それが幻想のなか以外には存在すらしないなんて考えると、変な気持ちになるよ。」と言ったの対して、アサンディッドマスター、パーサが、
「わかるわ。両親や配偶者、子どもとの関係って、人間関係の基本だもの。『コース』ではこの世界の人間関係を特別の関係と呼んでいます。(中略)
でも思い出して。Jは両親をー石工のヨゼフとセッフォリスのマリアをー愛してはいたけど、ほかの人たちも同じように愛したのよ。特別の愛は、個別、具体的だけど、聖霊はすべての人を平等に愛しているの。」と言っていた箇所。
普遍的なものだというのは理解できる。でもそれは、やさしさとか親切とかとはもちろんちがうのだろう?
愛っといってイメージが浮かぶのは、マザーテレサのような献身的な愛の姿勢(といってもよく知らない)。特別な人ができること…?じゃないよね?
私の本質も愛だということだけど、その本質はいったいどこにあるんだろう。
そもそも愛はdoなのかbeなのか。
「私」と思っているうちは、すでに愛ではないのか。
愛がわからない
要するに、私は愛がわからない。
そしてそれは今に始まったことじゃない。
愛で思い出したのは、「愛がわからなければそれがわからない自分を愛しなさい。」というフレーズ。たしか『なまけ者のさとり方』にあったなぁ?この本はどんなことが書いてあったのか思い出せないが、このフレーズだけ残っている。探してみたけどどこにあったかわからなかった。
ひとつそれらしいところ…「もし、愛するという気持ちがどういうものかがわからなければ、それをわからない自分を愛すればよいのです。」とあった。
これかな?
わからない自分を愛する。初めて読んだとき、だから~、それがわからないんだってばぁ、とツッコんだことを覚えている。
いまもいるのはここかな。