2020-10-15
C 神と神の国を守るためだけに警戒していなさい。
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』、6章6節のざっくりまとめ。聖霊の第3のレッスンについて。
聖霊の第3のレッスンは、自我のレッスン「自我と自我の国を守るために警戒していなさい。」を修正するものだという。
第1のレッスンではまず心へと立ち返らせ思考の逆転を促し、第2のレッスンでは聖霊の平安を選ぶ決断ができるようにする。第3のレッスンは、これまでずっと馴染んできた自我の思考システムに戻ってしまわないよう警戒が求められている。
「私たちは以前、聖霊は評価をするものであり、そうでなければならないと述べた。聖霊はあなたの心の中で、誤ったものから真実のものを選り分け、あなたが心の中に入らせる考えの一つひとつを、神がそこに置いたものの光に照らして判断するように教える。」(T-6.V-C.1:1-2)
私たちは、生き方にある基準を当てはめるよう求められている。自分の経験、反応、感情を聖霊の元へもっていき照らす。そうしたなら聖霊の評価プロセスはすでに始まっているという。
「したがって、聖霊の第三のレッスンは次の通りである。
神と神の国を守るためだけに、警戒していなさい。」(T-6.V-C.2:7-8)
「私たちは心穏やかでない時を見逃さないよう毎日警戒していなければなりません。」とワプニック先生。そして、心が平和でないのは誰かあるいは何らかの状況のせいではなく、心で行った決定だけが原因だとなるべく早く思い出すように努めることだとされる。
「これは、根本的変化に向かう主要な一歩である。」(T-6.V-C.3:1)
根本的変化とは心の中にある。警戒とは、聖霊の修正がなされる心へと戻ることを指している。
「第二ステップが第一ステップから導き出されているように、この第三ステップは第二ステップから導き出される帰結であり、望ましいものと望ましくないものという二項対立を強調する。」(T-6.V-B.3:5-7)
この辺りについては、マニュアル「信頼の深化」(M-4.Ⅰ-A)やレッスン133「私は無価値なものに価値を置かない。」で同様の概念が扱われていると説明があった。もちろん、望ましいもの(聖霊の赦し)を選び、望ましくないもの(自我の攻撃)は拒否する。
例外を設けない
「このレッスンは、自我に対し警戒できるだけではなく、必ずそうしなければならないと教える。」(T-6.V-C.4: 3)
「それは難しさの序列については問題にせず、警戒することのみを明確に最優先する。このレッスンは、例外を設けたい誘惑が生じることは否定しないが、例外を設けてはならないということは、実にはっきりと教えている。」(T-6.V-C.4: 4-5)
警戒している具体的な事柄が問題なのではない。「重要なのは思考システムとしての自我に警戒を怠らないことです。しかし、私たちは常に例外を設けて心の中に闇の部分を残そうとします。」(ワプニック先生)
闇が少しでもあれば、自我の思考システムを生きながらえさせるのに十分だ。だからこそ例外を残してはならない。
包含という概念
「あなたは、自分は神の国をもっていないと信じてきた。それゆえに、自分の信念の中で、自分自身をそこから除外してきた。したがって、何としてもあなたに教えなければならないことは、あなたがそこに含まれるべきだ(must be included)ということ、そして除外すべきものとは、自分がそこに含まれていないという信念だけだということである。」(T-6. V-C.4: 4-5)
ここでは「包含(Inclusion)」が重要な概念となる。包含とはすべての人々が神の愛に包まれている平和な状態だという。
そして、これはまず自分を神の国に含めることから始めなければならないという。
包含とは聖なる関係の特徴のひとつであり、その反対の除外は特別な関係の特徴のひとつである。それは、「あなたの身体のある部分や性格のある一面は好きだけど、全部が好きなわけじゃない」あるいは、「愛する神の子を選びはしたが、神の子全員を愛するわけではない」など、条件付きOKのかたちをとる。
「警戒とは、私たちの分離した心が意識から、“すべてを包含する天国の一体性の真理”を除外しようとするあらゆる抜け道に注意を怠らないでいることです。」とワプニック先生はおっしゃっている。(訳文(・・;))
警戒とは「何を信じたいか」の表明
第3のレッスンでイエスが語っている警戒とは、神への帰路の旅において自我的見方、言動をしてしまうことに対する警戒であって、ざっくりした言葉でいうなら、自我への警戒状態を習慣づける重要性だ。
「肉体的、心理的な不調というものはすべて心の誤った選択に由来しているのですから、私たちは警戒し続けて自我を選ばないようにしなければならないということです。」(ワプニック先生)
私たちが何らか痛みや辛さを感じているなら、心に立ち返らなければならないとされる。そして学習を通じて知ったイエスを選ぶことで得られる報酬と、自我を選ぶことによってもたらされる痛みを思い出すことだ。
「ということであれば、第三のステップは、あなたが何を信じたいかの表明であり、その他のすべてを放棄しようとする意欲を伴う。」(T-6.V-C. 10:1)
「イエスが言っているのは、『他のものはすべて放棄します』ということではなく、『重要でないものを放棄する意志があります』ということであって、同時に、心のある部分ではそうすることを望んでいないことに気づくことです。」とワプニック先生は説明なさっている。
他の箇所でも繰り返し述べられているように、私たちには間違った心に留まって特別な個としての存在を守りたいという防衛がある。しかし、一方では真の因果を見通せるようになりつつもある。
これは「ACIMの真面目な学習者が皆、どこかの時点で感じなければならない葛藤」とも言及されている。
3つのレッスンを通した決断、そして抵抗
終盤には「3つのレッスンを通して問題意識を持つようになります。」と決断のオプションが挙げられている。第2ステップで包括性を選ぶと第3ステップの決断が現れるのだという。
- 「獲得するために与える」のか、「与えることと受け取ることは同じ」なのか。
- 「どちから一方」か「完全な包含か」か。
- 私たちの想念、言動は、聖霊から来たものか、自我から来たものか
「警戒は確かに努力を必要とするが、それは努力そのものが不要だとあなたが学ぶまでの間だけである。」(T-6.V-C.10:2-4)
自己を手放す抵抗は大きく、警戒し続けるということは多大な努力が必要だ。
「私たちは個としての自分を維持し続けながら幸せになれるコースが大好きで、特別性を有する個としての自分を手放さないかぎり心の平和は得られないというコースは求めていないのです。」とワプニック先生。
しかもこれは学習者のことを言っているのだ。「学習者の多くは、ACIMを変更して自分が読み取りたいように読みたいと思っています。それは、自分が自我を選ぶ決断に対して本当は警戒を怠っているということなのです。」とも述べられている。
ちょこっと感想
繰り返し言及されていて印象に残ったのは、私たちのデフォルトが自我選択だ(「自動」にまかせておくと「自我」になっちゃう)という指摘だ。いくらACIMを通して正しい選択とその報酬について知っているつもりでも、常に気を付けていないと気づいたときには自我に戻っている。
ACIMでは起こったことはシンプルで(神と分離したと誤解した)、救済の学びは簡単だと書かれているから、なるほど、簡単なようにも思えてしまう。
あ、でも、私、身体持ってた。なんか重い。だめだ、ささいなことがめっちゃ気になる。
そうそう、そもそも最初の誤解から生まれた恐怖、罪悪感のために、宇宙を作る必要があったんだ。肉体も必要だったんだ、それから「それは私が悪いんじゃない」と思うためのたくさんの別の肉体も必要としていた。。。っけ。
その元の原因を、この世の今ここで感じている私が一個ずつ修正しないことには、まさに救済は“絵に描いた餅”なんだ。
でも、修正のためにネガティブな感情を直視するのは、なかなかしんどい…(それが幸せへの近道だとわかっていても、できれば避けたい。何か、あるいは誰かのせいにして済ましたい。)
平穏であるはずのACIM学習者の人生がともすればきつく見えるのは、その葛藤に直面することになるからなのかなと思う。
「聖霊のレッスン」とワプニック先生の解説には、個としての自分を手放すことには多大な抵抗があるから、これは難しい時間がかかるプロセスなのだと改めて述べられていた。それは私にとって大事なことだと感じた。どっちを選ぶにしても。