2020-09-03
9月に入った
毎日少しずつテキスト解説本、『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』を読んでいる。
…が、「そもそも何でACIM?」というのが曖昧になったまんまだ。ん、6月以来かな?
思い出そうと読んでいた『神の使者』のほうは、日にちが空いてしまい頓挫してしまった。。。こうなると私はまた最初から読まないとスッキリしない(こういう融通が利かないところも自我的こだわりなんだろうか)。
ワークのほうは、テキストを1節ずつ何日もかけてゆっくり読みながら続けている。今日は3章1節を読んだ。
最近思うのは、ACIMはむちゃくちゃ難しい、ってこと。
知ってはいたつもりだったけど。改めて。
とんでもないことを始めちゃったな。。。ああ。
ACIMを勉強するのは楽しい。
世の中矛盾が多くて何か変だと思っていたが、ここに答えがあると思う。ACIMの教えを通して見ると、世の中のからくりがよくわかる。
ただ難しいのは実践だ。
それぞれの学習者が、家族関係、人間関係、身体、おカネ、宗教、いろんなテーマを通して、赦しを学ぶのだと思う。
私は肉体への執着が強いし、個としての自分への執着も強い。その先には死に対する恐怖がある。
自分の肉体にダメージになるようなことを、「それは幻想だから」なんてとても思えない。
母に対する特別な思い入れもある。
そもそも『神の使者』に興味を持ったのも、「個としての自分」に役立つ智恵を獲得できると思っていたのかもしれない。
あ~、だから自我の「検閲」もすっと潜り抜けちゃったんだ。
最近になって、本当にACIMが学習者に求めていることがう~っすらわかり、ぎゃあ~!となっているんだ。
ああ、とんでもないことに…
ああ、気づけば…
関わっちゃっている。
引き返せるか。
それにしては、ACIM(聖霊)は、まっとうなことを教えてくれている気がするし。
ふぁ。。。
Scylla and Charybdis
こうした「自我の恐怖」について前より意識化できるようになったのは、ワプニック先生の解説のおかげかもしれない。
思えば当初から、学習者が抱く恐れについて書かれていたが、私は漠然としか感じていなかった。
それが今、葛藤となって強烈に感じられる。
自我が、いやだ、いやだ、自分は自分でいたいんだ、そして私は私の身体だ、と大声で叫んでいる。死はリアルだ。死は怖い。親が老いるのは辛い。その先はもっと考えたくない、と大騒ぎしている。
世界と肉体はない。神はある…って習ったけど。。。
でも、私が今いるここじゃあ、毎日がすんごくリアルだよぉ~
2章でワプニック先生がJTTAで「しかしイエスはこの霊的な旅の道すがらACIM学習者は『にっちもさっちもいかない葛藤の道(the Scylla and Charybdis of the spiritual path)』を通過しなればならないとも指摘している。」とおっしゃっていた。
Scylla and Charybdis…アルクの「英辞郎」で見たら、ちゃんと出てた。
ああ、私の今回の夢の人生は、Scylla and Charybdisの最中で終わっちゃうのか。今は前にも後ろにも動けそうにない。
あ、全然話が変わるけど、久しぶりに友人とランチした後、ビル全体が店舗の大きい書店に寄ってみた。
一年前もACIMのスペースって本屋さんの規模のわりにごく小スペースだなと思っていたけれど、ますますACIM関連本が減っている気が。
書店によって得意、不得手があるのかな。買われたばっかりなのか、基本テキストさえないなんて寂しいな。
このブログでは、奇跡講座のことをやったり、やらなかったりしています。あしからず m(_ _)m