父の“鑑定眼”

2020-08-16

お盆に決まってけなされる父

お盆、つつがなく終えることができた。

故人を偲ぶ季節には、いっつも父はけなされることになる。

「ほんとにお人好しでだまされやすい、だらな(ばかな、あほな、の富山弁)人やった。」と母。

母がグチを言うのも無理はない。乗せられやすい父はやっかいごとを軽はずみに請け負ってしまい、その尻ぬぐいをさせられるのがしっかり者の母だったから。

母のボルテージは話すにつれて高まり、決まって父が“友達”の骨董商からだまされて偽物や壊物を買ってしまった話になる。

「ほんとうに、あんな贋物、私やったら一目で見抜けるわ。バランスも悪いし色もよくないし。まったく見る目がない。」と母。

父は死後もけちょんけちょんな言われようだ。

私は、でも…、と思う。お父さんの“鑑定眼”、それでよかったのかも。

父と母は見合い結婚だ。

もし、父がお人よしでもなく“鑑定眼”も高かったら、成約に至っただろうかー。母は、自分がぼろくそに言う、その父の眼をもって選択された女なのだ。

人生の選択の判定やいかに

父とは照れくささが先に立ち元気な時にはあまり話せなかったが、認知症を患ってからは逆におしゃべりするようになった。

ある時母とのお見合いの話をしてくれた。

「お母さんのお母さんにいろいろ質問されたん。」と父。

「へ~、面接みたいもんかな。」と私。「それでお父さんはどうやったん、お母さんの印象?」

「うん。なんか難しそうなひとやな、と思った。」

母は若い頃166㎝と当時としては高身長だった。以前見合いの席には自分で仕立てたスカートスーツで臨んだのだと話していた。迫力ありそうだ。

「じゃあ、迷った?」と私。

「な~ん、迷わん。」

「そう?」

「だってやってみんにゃ、わからんもん。」

生涯を連れ添ってみての結果判定はどうだったんだろうか。

母は自分の伴侶がわけがわからなくなっていくのが受け入れなかったんだろう、認知症を患ってから、かなり父につらく当たっていた。たとえば、頻繁に使うティッシュペーパーは「半分に切って使う」と定められ、そのルールを忘れてしまう(わからない)父はひどくなじられた。ティッシュなんて、トラック何台分も自由に使っていいくらい働いてきただろうに。

しかし父はそんな母に抗うこともなかった。

父はディサービスに通っていた時期があったが、ある日その連絡帳(幼稚園の連絡帳のようなもの)に「奥さんの好きなところを聞いてみました。」という記載があった(リスキーな質問だ)。

好きなところー。その答えは、①何を作っても料理がおいしいこと、②政治や経済など世事に明るいこと、③私の世話をしてくれること、だった。

お父さん、案外これでよしと思っていたのかな。

病気の力を借りなくても、もっともっとおしゃべりしたらよかったな。

時はどんどん流れていく。

常に今この瞬間だけだ。今もその貴重な瞬間だ。

“父の“鑑定眼”” への2件のフィードバック

  1. C.C. より:

    なんか、すべてすばらしい内容で、感動しました!ありがとうございます。私の父も、他界しています。最後は認知症で、すこし問題もありました。(父にではなく、ほかの家族のメンバー間で)でも、父がたまに夢にでてきたことがあり、天国にいるのを知っているので、よかったとおもっています。

    • タマソニア より:

      C.C.さんへ

      読んでくださって、ありがとうございます。
      C.C.さんのお父さまも他界なさって…
      でも夢に出てこられたこともあるのですね。
      ええ。天国におられるのを知っておられて、よかったです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

← 戻る