2020-08-07
私たちの信念を正すシンボルとしてのイエス
ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。5章6節「イエス」から。
ACIMの旅は二元性から一元性への旅だが、今自分がいると思っているところからスタートしなくてはならない。ワプニック先生は、二元性世界、とくに西洋で “私たちの信念を正すシンボル”となるのがイエスだとされ、この章で、テキスト5章でイエスが自身について語った言葉をまとめて紹介されている。
「私に天と地における一切の力を与えたのは、私の決断のみであった。私からあなたへの唯一の贈り物は、あなたが同じ決断をするのを助けることである。」(T-5.Ⅱ.9:2-3)
これはマタイによる福音書28:18「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた』(後略)」 について言及された(いわゆる聖書の修正)箇所だという。
天地のすべての力はもちろんイエスのものではない。それは神の子の心の決断にある。
イエスは私たちがイエスと同じ決断をするサポートをしている。
「この決断とは同じ決断を分かち合うという選択である。なぜなら、その決断自体がまさに、分かち合おうという決断だからである。」(T-5.Ⅱ.9:4)
自我の決断が「自分から神を排除する」という「排除の決断」なのに対し、聖霊の決断は「分かち合いの決断」だ。神の子はひとつであり、そのアイデンティティ、考えを一見バラバラに見える他者と分かち合うことが聖霊の想念の表れだ。
「その決断は与えることにより為されるので、真の創造に類似する唯一の選択である。私はあなたにとっての決断の手本である。神を選ぶ決断をすることによって、私は、この決断が可能であり、あなたにもその決断ができることを、あなたに示した。」(T-5.Ⅱ.9:5-7)
イエスはもちろんこの世における肉体的活動を指しているのではなく、決断する力の重要性を強調しているのだという。
「すでに保証したように、私のために決断してくれた心はあなたの中にもあり、それが私を変えたように、あなたもそれにより自分を変えてもらうことができる。」(T-5.Ⅱ.10:1)
「休息は眠ることからではなく、目覚めることからもたらされる。聖霊は、目覚めて喜ぶようにとの呼びかけである。」(T-5.Ⅱ.10:1-5)
イエスが決断した心は私たちにもある。心のはたらきに目を向けよ。
この世で営まれている自我の人生は、実は夢なのだ。そこから目覚めよ!と呼びかけている。
行動ではなくあり方によって伝える
「あなたの内なる聖霊を通して、これだけを聞きなさい。そして、私があなたに教えている通りの聞き方で聞くようにと、あなたの兄弟たちに教えなさい。」(T-5.Ⅱ.10:10)
「私たちは『聞け』と大声で叫んだり、ACIMの教義を説教したり、その形而上学を突きつけて教えるのではありません。」とワプニック先生。教えるのは行動を通してではなく、あり方を通してだ。
聖霊を選べば、存在としての根幹が愛と平穏になり、それが自ずと広がるのだという。
「誤った声に誘惑されたときには、私に呼びかけなさい。そして、私の決断を共有し強化することで癒すことができるということを、思い出させてほしいと求めなさい。」(T-5.Ⅱ.11:1)
ここでワプニック先生は5節で述べられたことを繰り返しておられる。この世で生きている(と思っている)私たちにとって身近なアドバイスだと思うので載せたい。
「平穏でないのなら、それは私たちが誤った決断をしたためなのです。イエスは、外で起こっていることに反応するのではなく、自分の誤りに気づいて心の内に入りイエスに助けを求めるように要請しています。私たちが怒ったり批判的になったり不安に思ったり、あるいは他者との違いを重要視して特別性をゴールとして望んでいるときは、常に間違った声に誘惑されているのだとわかります。」
聖霊を選ぶとは分かち合うこと
「私は、私だけのために願うことはできないと理解したので、一なる声を聞いた。一なる声を聞くということは、自分自身がそれを聞くためにそれを分かち合おうと決断していることを示唆している。」(T-5.Ⅳ.4:1-2)
聖霊の声を聞くことは分かち合う意志、決断だ。
「私」が聖霊を選び、赦しを実践できれば、「世界」は変わる。イエスは神の子の全一性を強調している。
「私は、自分が学んだことを教える必要に駆られたのを忘れることができない。それは、私がそれを学んだからこそ、私の中に生じた必要だった。」(T-5.Ⅳ.5:3)
「理由は何であれ、心がざわつきそうになった時はいつでもイエスに助けを求める時です。」とワプニック先生。そして徐々にイエスのように見て感じて、他者とも共有することで強化されていく。
イエスは正しい心から選択する「心の力」の象徴でもあり、イエスと一つになればその力を呼び起こせるとおっしゃっている。
5章7節 結び
「この節を素晴らしい段落で締めくくります。」と5章7節には、T-5.Ⅳ.8がそのまま掲載されている。元々はヘレンに向けられたものだったというが、その内容は私たち全員に向けられているという。
「かくも神聖なあなたが、どうして苦しむことなどできるだろう。あなたの過去はその美しさを除いてすべて過ぎ去っており、祝福の他には何一つ残っていない。
私はあなたの優しさのすべてと、あなたが抱いたことのある愛のこもった考えの一つひとつを保存してきた。私はそれらのもつ光を隠していた誤りを除去してそれらを清め、あなたのためにそれらをその完璧な輝きの中に保ってきた。
それらは、破壊を超越し、罪悪をも超越している。それらはあなたの中に居る聖霊から生じたものであり、私たちは神が創造するものは永遠であると知っている。
私が自分を愛するようにあなたを愛してきたので、あなたは真に心安らかに出発できる。あなたは、私の祝福と共に、私の祝福のために出かけていく。
それを常に私たちのものにしておけるように、それをもち続け、分かち合いなさい。
私は、神の平安が保たれ、分かち合われるように、それをあなたの胸と両手に託す。それを抱くための胸は清く、それを与えるための両手は力強い。
私たちが負けることはあり得ない。私の判断は神の叡智と同じほどに強く、私たちの実存は神の胸と御手の内にある。
神の静かな子供たちは、祝福された神の子らである。神の想念はあなたと共にある。」
ちょこっと感想
7節結びのテキストの引用、途中端折ろうか、あるいは載せないでおこうかと思ったが、結局そのまま掲載した。
6節のイエスの言葉は、引用をつまんでピックアップしたので、わかりにくくしてしまったかも。
日本に生まれ育った私はもともとイエスになじみがなく、この世で“私たちの信念を正すシンボル”としてのイエスの象徴性が残念ながら薄い。私にとってこの教えは、『神の使者』のアーテンとパーサが伝えたことの域をまだ出ていないのかもしれない。
去年からワプニック先生のテキスト解説本にご縁ができ、それによってイエスとACIMテキストが前より近しいものになった。
私は悟りに至りたいとは思っていないのだけど、こうして学ぶことに何か役目のようなものがあるかなと、幻想の人生時間を使っている。
JTTAをまとめている時は、「自分」が入っていないのでわりかし神聖だ。また長くなってしまった。