2020-08-04
(5章5節 赦しを選ぶ決断 ① の続き)
贖罪と赦し
ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の5章5節「赦しを選ぶ決断」のざっくりまとめ、前回からの続き。
神から分離したと思い込んだ私たちが源である神の元に戻るためには「赦す」ことが必要だが、5章の終わりには「赦し」という言葉を用いずに赦しを概説している箇所があるという。5章7節5段落めからだ。
「あなたが完全に喜びに溢れていないときはいつでも、その理由は神の被造物たちのひとりに対して、愛が欠如した反応をしたからである。」(T-5.Ⅶ.5:1-1)
ワプニック先生は、私たちは「“あの人が愛してくれなかったから”幸せではない」と思うが、それは間違っている。そうではなく「私たちのほうが“愛を注いでこなかったから”こそ幸せではない」のだと説明をなさっている。
つまり、この幸せではない状態というのは、神からの愛を反故にしてしまった「罪」を背負いきれず他者に投影し「あなたが愛してくれなかったからだ」と責めているのだという。
「これを『罪』と知覚するあなたは、攻撃されることを予期して防衛的になる。このように反応するという決断はあなたが下したものであり、したがって、それは取り消し可能である。」(T-5.Ⅶ.5:2-3)
自分がした決断なのだから、自分で取り消すことができるのだ。
「それは普通の意味の悔い改めによって取り消すことはできない。なぜなら、それは罪悪感を暗示しているからである。」(T-5.Ⅶ.5:4)
「罪悪感を感じることを自分に容認するなら、あなたは誤りを取り消してもらう代わりに、それを強化することになる。」(T-5.Ⅶ.5:5)
一般的な(つまり自我の)贖罪は、罪と罪悪感をさらに強化してしまうだけで本質的な訂正は行わない。自我の計画は私たちに「マインドフルになってはいけない」と要請し、私たちはそれに従ったままずっと「心」の機能を忘れてしまっている。
ワプニック先生はこここそ変えるべき点だと主張、以下のように述べられている。
「真の贖罪とは、ただ罪はリアルだと信じるという誤った選択を正すことにより、マインドレスからマインドフルへの訂正を余儀なくさせる真の結果を伴うものです。」
心の誤りを正す決断
ここからは5章7節6段落めの説明。
「決断は難しいものではあり得ない。」(T-5.Ⅶ.6:1)
すでにしちゃっているしー、と。
「したがって、取り消しのための最初の一歩は、自分は積極的に誤った決断をしたが、同じく積極的に別の決断ができると認識することである。」(T-5.Ⅶ.6:3)
最初の一歩は、「別の決断もできるよ!」という気づきだ。
「他の人の自我が私たちにどんなことをしようと、私たちが『罪』に力を与えることを選ばなければ、何の影響もありません。罪も赦しも私たちの選択次第なのです。」とワプニック先生。
「このことに関しては、自分自身に対して断固とした態度で臨みなさい。そして、取り消しのプロセスを充分に自覚し続けていなさい。」(T-5.Ⅶ.6:4)
これは、自分に正直に、イエスには隠し立てせずに、という意味なのだという。
「イエスは次のように言い、私たちに神聖ならざる関係を内面に向き直る手段として用いるよう要請しています。『もし今、心穏やかでないのなら、私は間違った決断をしたにちがいない。そして別の決断をする責任は私だけにある。』」
「あなたの役割は単に、誤りが犯された地点まで自分の思考を戻し、それを平安のうちに贖罪に引き渡すことだけである。」(T-5.Ⅶ.6:5)
この文章の「誤りが犯された地点」とは、心の中の「決断の主体」であり、そこが誤りの元凶で誤りを正すことができるのもそこだけなのだ。
赦しのプロセス
イエスは私たちが平静を失ったときに「赦しのプロセス」としてテキスト7章7節6段落後半の言葉を用いてほしいと要請している。
①最初のステップ
最初は、次のフレーズだ。
「私は心安らかではないので、誤って決断したに違いない。」(T-5.Ⅶ.6:7)
自分の心が穏やかではないという気づき。そして、だから誤った決断をしたのだと認識すること。
「私は誤っていた」と宣言すると、主体性が自分に戻る。
②2番目のステップ
「私は自分でこの決断をしたが、別な決断をすることもできる。」(T-5.Ⅶ.6:8)
「私は心安らかでいたいので、別な決断をしたい。」(T-5.Ⅶ.6:9)
2番目は、選択の力を認識し、別の決断を実行することだ。
自我は心にベールをかけて私たちが行った選択を忘れさせているが、私たちはそのポイントに意識を向ける必要がある。
③3番目のステップ
「私は罪悪感を感じない。聖霊に任せれば、私の間違った決断の結果はすべて取り消してもらえるからである。」(T-5.Ⅶ.6:10)
3番目は選んだ聖霊に任せる段階だ。
ここでワプニック先生は前にも述べられていた「聖霊が積極的に何かをするのではありません。」という注意をなさっている。幻想の闇を真理の光に運べば、自ずと闇は消える。それは暗い部屋で照明のスイッチを入れれば闇が消えるごとく、決断の主体がただ自我を選ばないだけ、と説明なさっている。
「私は、聖霊に私に代わって神を選ぶ決断をしてもらい、私の間違った決断の結果を取り消してもらうことを選択する。」(T-5.Ⅶ.6:11)
これが5章の最後の文章で、3番目のステップで正しい心からの選択がもたらす結果を反映している。聖霊を教師として選ぶことによって、聖霊が私に変わって“決める”ことができるようになり、実質的に神を選ぶ決断をしていることになります。」とワプニック先生は締めくくられている。
ちょこっと感想
テキストを読んでいる他の学習者の方にとっては何を今さらということかもしれないけれど、贖罪や赦し、『神の使者』で見たような赦しのステップがテキストにちゃんと書いてあったんだと、感慨深かった。
信じられなければ話は始まらないが、要はシンプルだ。
心がざわつくなら、自分の見方が間違っている。イライラ、悲しい、恐い、心配だ、腹立たしい、あの人のせいで…、私ばっかり…、とんでもないことをしてしまった…どんな形で心に現れるにせよ、心がざわついたなら、それは分離しようという心の決断の結果だ。
この世に今表れていることは「結果」であり、その「原因」のほうを変える必要がある。
それが、聖霊の見方を選ぶこと。贖罪ーつまり罪など何一つなしていない。今も神とある、と知ることだ。
平たい言葉で言えば、「運命の主人は自分」「幸せは自分の心が決める」とも言えるかな。
なんか壮大だな。時間も空間もない。ただ目前にある決断。。。
(5章5節 赦しを選ぶ決断 ③へつづく)