2020-08-01
テディさんに初対面
早いなぁ。もうACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の前回のまとめ記事を書てから一ヶ月近く。
“私の旅”は、5章後半あたり。トコトコ歩いている気分だ。
先月のオンラインでのシェアの会では、初めて「テディさん」が参加してくださった!
テディさんとは、シェアの会の仲間のトベちゃんが「お師匠さん」と呼んでいる方だ。
トベちゃんがいったん離れたACIMに戻る決意をして改めてワークブックを始めて数か月、病気が発覚して精神的に最もきつかった時期にブログを見て連絡をくださりワプニック先生の著書から癒しとなる引用箇所を教えてくださったとか。ワプニック先生の未翻訳本を広く読んでおられるのだという。
オンラインながら初めてお目にかかって、「はじめまして」の挨拶の後「お噂はかねがね…」と発したら、画面上の仲間とハモった。
トベちゃんは年齢は私よりずっと若いものの、私はACIM学習の上では「お姉さん」のように思っている。
その「お姉さん」の「お師匠さん」…!?
ちょっとキンチョーして人見知りが発動してしまった(そうでなくとも、ひきこもりすぎて会話というものがヘタになってる (・・;))。
テディさんは、穏やかな口調でワプニック先生をとても尊敬していると話しておられた。
そうか、やっぱりワプニック先生ってすごい方なのか…と感じ入った(私は未だ真価が理解できていない)。
それにしても、ACIMを学習している方々…出会う方みんなACIMに対してとても真摯。能力的な面もすごい…。
5章5節「赦しを選ぶ決断」①
さて、5章5節の内容へ。
JTTAのおはなしでは、「自我が贖罪を恐れるようになったところ」だ。
自我は罪悪感をでっちあげ正当化して、「『心』に留まっていたら、お前神に見つかって破滅させられるぞ」と脅す。私たちは「心」から追い立てられ、この世界と肉体を誤創造した。その結果、罪悪感と恐怖がこの世に投影され、“断片化した”私たちはそれをそれぞれの場所から“体験”している。
その悪循環は、私たちが別の選択があると気づいて選び直すまで続く。
5節はその別の選択(聖霊の赦し)のところー。最初の引用文は以下の箇所だ。
「聖霊の声は、あなたがもといた場所でありいずれ再び戻ることになる場所に戻るようにと、あなたに呼びかける声である。この世界にいても、その声だけを聞き、他の声は聞かないということは可能である。それには、努力と、学ぼうとする強い意欲とが必要である。」(T-5. II.3:8-10)
(真の)心を取り戻して聖霊を選ぶためには、「努力と、学ぼうとする強い意欲とが必要である」…。ワプニック先生は「ACIMを学ぶ皆が認識しているとおり、これは一度で行うようなことではありません。特別な自己を失うことへの抵抗を克服するため、赦しのプロセスには日々献身(day-in-and-day-out dedication)が求められます。」と言葉を添えておられる。
「聖霊と自我だけが、あなたに開かかれている選択肢である。」(T-5. Ⅴ.6:8)
「選ぶということは、分裂した心があることを前提としている。聖霊は選択の一つである。神の子供たちが神から離れることを選んだにもかかわらず、神は子供たちを慰めもなく放置しなかった。彼らが自らの心の中に置いた声は、神の意志を代弁する声ではなかった。神の意志を代弁するのは聖霊である。」(T-5. II.6:6-9)
ここでは分裂した心があること、神の意志を代弁する声は聖霊であること、現在選んでいるのは聖霊ではないことなどが、初めて明記されていることに注目すべし、とワプニック先生は指摘されている。
「聖霊は、あなたが選択する際の導き手である。聖霊は神を代弁して語るので、あなたの心の中の常に正しい選択を代弁する部分に存在している。…天も地もどちらもあなたの中にある。」(T-5. II.8:1-2,5)
ここで、イエスは私たちに「分裂した心の構造」を示しているのだという。つまり、自我の声(地)と聖霊の声(天)だ。
さらに、ワプニック先生はこう続ける。「コースの中でイエスは『決断の主体(decision maker)』という言葉を使ってはいませんが、私たちに対して常に選択を促しておりコース全体を通して『決断の主体』を暗示しているのは明らかです。」
ここはとても大事なところなんじゃないだろうか。聖霊イエスが著したACIMをワプニック先生がニンゲンの視点で見たら、大事なのは自我か聖霊か心の中の決断するところだ、と思い、そこを『決断の主体』と名づけた点。
その明確化と強調によってACIMが数段理解しやすくなった気がする。
「だが、あなたは今、別なものに帰依している。あなたの分割された献身があなたに二つの声を与えたのであり、あなたはどちらの祭壇に仕えたいかを選ばなければならない。…それは、どちらの呼びかけのほうがあなたに価値があるかという基準で決められる。」(T-5. II.8:8-9,12)
「神を代弁する声が自分の中にあると知ることができるというのに、なぜあなたは、果てしなく続く狂気の呼びかけが自分に向かって発せられていると考え、それらに耳を傾けなければならないのだろうか。」(T-5. Ⅶ.3:1)
自我は苦痛に通じ聖霊が幸せに通じるが、「私たちは痛みと喜びの違いを知らない」(7章でみることになる)のだという。イエスは、分離した利益でなく共有の利益に着眼するとどれだけ私たちが気分が良くなるか、こちらのほうが断然私たちにとって価値があるのだと説明を続ける。
ちょこっと感想
ざっくりまとめ、いつもどこを取り上げどこをまるめたらいいのか、迷う。だらだら書いていたのを改めコンパクトにしたいのだけど。。。
聖霊のことがテキストに丁寧に書いてあったんだな~と改めて感じた。
自我ではなく聖霊を選びさえすれば幸せになれる…こういう類のことは、視点が変わってしまえば、なんだそんなこと当然だと感じるものなんだろう。
今は、何事もないときはそうなんだろうと思えるが、“有事”は罪悪感にどっぷり浸かってしまったり恐怖に固まってしまったりして訳がわからなくなってしまう。
薄皮を剥いでいくように少しずつ少しずつ、ワプニック先生がおっしゃるように「day-in-and-day-out dedication(毎日の、明けても暮れてもの・献身)」なんだな~。
なんかすでに挫折感。あまり先を考えないようにしよう。
(5章5節 赦しを選ぶ決断 ②へつづく)