2020-07-22
神の怒りは夢だった
「私たちは神の怒りだと思っていたすべてから救われており、それらが夢だったということを見出した。私たちは正気を回復しており、その正気の中で、怒りは狂気であり、攻撃は錯乱であり、復讐は愚かな夢想にすぎなかったと理解している。
私たちが神の怒りから救われた理由は、自分たちが間違っていたことを学んだからである。それだけのことである。
自分の子が真理を理解できなかったからといって、父親が怒り狂ったりするだろうか。」(W-pⅡ.fl.in:5.3-7)
自我と聖霊は高速スイッチング!?
前にワプニック先生の解説本を一緒に読んでいる仲間が、自我あるいは聖霊と共になって考えている私たちについて、「それって自我も聖霊もあるというよりは、スイッチングなんだよね。自分では意識してないけど両方の間を常に超高速で行き来しているんだよね」と言ったことがある。
なるほど、と思った。色みたいに白黒マーブル状に混ざり合ったりしているわけではなくて、0か100。その切り替わりか。
だから、ACIMの勉強をしているつもりでも何か心ざわつくことがあると、勉強していたはずの考え方がまるっきりわからなくなって「なんでこんな目に…」と思いっきり被害者気分になってしまうのか。それって思いっきり自我にスイッチが切り替わってしまっている時なんだろう。
自分が聖霊の声が聞けているような気もするし、でも一方でやっぱり自我の考えにがんじがらめになっている気がするのも、どちらかが勘違いというわけではなくて、自我と聖霊の両方を高速でスイッチングしていることを反映しているのだと思うと腑に落ちる。
昨日ワプニック先生の解説本の5章後半を読んでいて、心に刺さるテキスト引用文があった。
「もしあなたが自分自身の中だけに聖霊を探すという間違いを犯すなら、あなた自身の想念があなたを怖がらせるだろう。なぜなら、あなたは自我の視点を取り入れることにより自我を導き手にして、自我にとっては未知の国へ旅立つことになるからである。これは必ず恐れを生み出す。」(T-5.Ⅲ.4: 6-7)
これは前にもどこかで読んで気になっていたところだ。「自我の視点を取り入れることにより自我を導き手にして、自我にとっては未知の国へ旅立つ」というところ。
自我と聖霊、教師として選べるのは一方だけ
私は、聖霊の誘いも聞いたかもしれないが、自我もまた導き手にしてこのACIMを歩き始めた気がする。
自我は、ACIMに関心を持った私に「いいだろう、新しい霊性の道とやらも。それは、この世からさらに自分を隠すベール=退避の手段として用いるなら、わが意図にも合う。ただしゆめゆめ分離という大原則からは外れるな。」とでも言って支持してくれたのかもしれない。
『神の使者』を読んでACIMの存在を知ってから、これってすごくない?天動説→地動説くらいのすごいレベルのことだ。そして将来的に(この世レベルでは)輪廻転生が常識になるだろうけど、それをも上回るこの世の秘密。こんな大秘密が明らかになっているのになんで世の中は静かなの?…この価値がわかる私って、意外とすごくない!?
そう思った。これもまた自我は「こいつ自分の特別性に溺れやすいやっちゃで(関西弁!?)」と、私を「安心して」ACIMを送り出してくれた要因となった気がする。
自我と聖霊、両方の先生に従いながらワークブックを始めて7年。この先の道「自我にとっては未知の国へ旅立つ」というところで二の足を踏んでいる。
そろそろ覚悟して支持する先生を明らかにしなきゃだな。