2020-07-10
ニンゲンが理解できるレベルで
ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の5章3節「贖罪の原理に対する自我の恐れ」について。
これについては4章の「自我」のところでも細かく説明があった。本節では聖霊と自我を対比させつつさらに説明が加えられている。
本節は、次のテキスト引用文から始まっている。
「贖罪の原理と分離は同時に始まった。自我が作り出されたとき、その心の中に神は喜びへの呼びかけを置いた。」(T-5. II.3:1-2)
ここでイエスは「神は喜びへの呼びかけ(聖霊)を置いた」と言うが、ワプニック先生は、本当は「神は何もしていない」と説明されている。
では、なぜこのように言ったのか。
それは、「私たちが理解できるレベルで話しているから」だと言う。
こうした表現は、聖霊の世界のことをニンゲンの世界の言葉で “翻訳”してあると捉えて、表面的にではなく内容を掴まなくてはならないのだ。
「聖霊は“天国の報復部隊の大将”だ!」
さて、ワプニック先生による自我の主張はこうだ。
自我:「聖霊は天国の報復部隊の大将だ。お前を捕まえようと躍起になっている。捕まったら最後、怒り狂った神の前に引き出されて殺されるぞ。」「だからとっとと『心』から逃げろ。」
そう言って自我は「心」から私たちを追い出した。
その結果見事、私たちはそれからずっと、今もmindlessness(心がない状態)にある。
イエスはこのテキスト引用文で、自我と同じモチーフを用いながら、意味づけを変えたのだと言う。
それは「神が聖霊を置いたのは、私たちを(私たちをとっ捕まえて殺すためじゃなくて)優しく家に連れて帰るため」だと。つまり自我の作り話に半分乗っかりつつ結末を変えているのだ、と説明されていた(JTTAをさらに平たくまとめた)。
自我(+自我と一体化している私たち)の恐れの根源
「この呼びかけは、非常に強力なので、自我はいつでもそれを聞くだけで溶け去ってしまうほどである。」(T-5.Ⅱ.3:3)
4章の説明のくりかえしになるが、自我の恐れの根源とは、神の子である私たちが自分の選択ミスに気づいて選び直してしまうこと。そうなると自我は元の無へと消えてしまうことになるから。
私たちはその昔「分離があった」ことを前提に「個の存在」を確約した自我を支持し、今も選んでいる。
つまり、今私たちは自我と一体化している。
聖霊の声は、私たちのミスと選び直しへの気づきを促す。
聖霊の声を聞いてしまったら、私たちも「個としての私」も失うことになってしまう。だから聖霊も贖罪の原理も怖いし否定したいのだ。
一方「聖書に描かれている神」は「自我の神」だ。こちらは、「神が個々の肉体として私たちを創った」と確約してくれている。だから、私たちは不安にならずにすむ。事実ACIMより圧倒的に「人気」なのだ。
「一方を選ぶことによって、あなたはもう一方を放棄する。聖霊を選ぶことは、神を選ぶことである。」(T-5.Ⅱ.5:3-4)
自我の思考システムはと聖霊のそれは相互排他的で、私たちは自分を聖霊から解離させている。
聖霊を選ぶことは、自我を選ばないこと。すなわち個々の存在を選ばないということ。贖罪の原理がもたらすものは自我を脅かす。
「私たちが神の愛を恐れるのも無理はありません。」(ワプニック先生)という。
時間と戦いは自我のもの
「永遠とは神からの想念なので、聖霊はそれを完璧に理解している。時間は自我による信念の一つなので、自我の領域をなす低次の心は、疑問を抱かず時間を受け入れる。」(T-5. III.6:3-4)
時間と永遠も自我と聖霊と同じく解離したもので、互いに理解不能だという。
「永遠」は神の質であり真理で、一方「時間」は自我の質だ(「永遠」は「ず~っと」という意味ではなく、「時間の概念を超えた」という意味なんだろう)。
ワプニック先生は、時間は罪、罪悪感、恐れを守っていると説明されている。
「平安は自我の最大の敵である。自我による現実解釈によれば、戦いこそが自我が生き残るための保証だからである。」(T-5.Ⅲ.8:7)
このテキスト文が私たちもまた戦いを好む根拠なのだという。そもそも今ここにいると思っている私たちのルーツは「神との戦い」という考えが発端からだ。
戦いは自我思考を強める。
逆に言えばだからこそ、すべてをとりなす「贖罪の原理」が自我に恐怖をもたらすのだ。
自我は神の国に影響力なし
「この部分を隠蔽しようとする自我の試みにもかかわらず、それは依然として自我よりもずっと強いものである。とはいえ、自我自身はその強さを認識していない。」(T-5. III.10:4)
自我は聖霊を実は知らない。ただ「自我を選ばない力」を恐れている。
実際には「心の決断の主体」が真の力の源で、選び直す力を持つ。聖霊は私たちを決断の主体と正しい心へと導くので、私たちの心が聖霊に近づくと自我は関心を自分(肉体、この世)につなぎとめるよう妨害する。
「自我はあなたを神の国から追放されたままにしておくことはできるが、神の国自体の中では、自我には何の力もない。」(T-5. IV.3:4)
自我が真の影響力を持たないことは、何も起こってない(贖罪の原理)からだ。
「贖罪」と「贖罪の原理に対する自我の恐れ」は繰り返し何度も出てくるテーマで、その重要性を認識することが学習を進めていく上で大事だとワプニック先生はここでも述べられている。
この恐怖を守ることこそ、私たちが生まれてきた理由だ。
だから、(かなり勉強を続けていても)実際に恐れを乗り越えてACIMを生きるのは難しいのだ。
「コースの主たるテーマは、自我との同一化を終わらせることです。私たちはこれまで同一化してきた自我ではなく、心の決断の主体と同一化することを学んでいるのです。」とおっしゃっている。
ちょこっと感想
言っている意味はわかる。
でも、一方で幻想とされているこの世は、やっぱりひどくリアルだ。
そして最近はさらに、感染症の広がり、豪雨や土砂災害、頻繁になっている地震など緊張状態が高まっている気がする。また自分の体調や経済、人間関係もテーマもある。
これらも、聖霊に近づこうとすると関心を自分の方に向けようとする、自我の妨害というやつだろうか。
自我の呪いが少しでも解けますように!
聖霊の導きに委ねられますように!
私が自分の役割をまっとうできますように!