2020-07-09
ライトモチーフ「贖罪の原理」
ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の5章2節「贖罪の原理」について。
「贖罪の原理」はそういえば、4章の自我のところでも出てきていたな、と思い出し見てみたら、あった。次節の「贖罪の原理に対する自我の恐れ」もあった。
これらはワプニック先生が「ライトモチーフ(Leitmotiv)」とおっしゃっているものでACIM全体を通して繰り返し何度も出てくる固有の概念だ。
「贖罪の原理」は端的に言うと「the separation never occurred.(分離は一度も起こらなかった)」(T-6.Ⅱ.10-7)に集約される。
天国に影響を与えることはできない
「智識はいつでもどこへでも流れ込む用意があるが、それは対抗するということはできない。したがって、あなたにはそれを遮ることができる。しかし、それを失うことは決してできない。」(T-5. I.4:10-11)
この節でワプニック先生が繰り返しおっしゃっているのは、このことだ。
すなわち私たちは智識(天国)に影響を与えることはできない。また私たちが聖霊を否定してもその存在が消えるということはない。
私たちはいま自我が支配する世界におり、その世界の騒々しさ、忙しさで聖霊の声はかき消されている。聖霊などといないと思う。しかしそれはただ意識に上っていないだけだ。
「あなたの意志は、神があなたの心の中に置いたので、今でもあなたの中にある。そして、あなたはそれを眠らせたままにしておくことはできても、消し去ることはできない。」(T-5.Ⅱ.1:5)
私たちの真の意志は神の意志の延長だ。それが今は無意識に埋もれている。正しく選ぶまでは、私たちにとっては「失われている」となる。
ワプニック先生は「私たちは自我と自我の世界を支持する決断によって、聖霊の臨在をもみ消し聖霊とのつながりを中断することはできますが、破壊することはできません。これは贖罪の原理、つまり分離は一度も起こっておらず、神の愛は神の愛以外のどんなものからも影響を受けないという原理を反映するものです。」と説明しておられる。
失われているのは真理に対する意識だけ
「それ(真理)はあなたに属している。なぜなら、神の延長であるあなたは、神と共にそれを創造したからである。あなたが神に創造されたがゆえに神の一部であるのと同じように、真理はあなたの一部であるがゆえにあなたのものである。
善なるものは、創造を代弁する声である聖霊から生じるので、決して失われない。善でないものは創造されたことはなく、したがって、それを保護することはできない。」(T-5. IV.1:5-8)
このテキスト引用文は美しいと思う。真理を簡潔に表していると感じる。
この部分についてワプニック先生は「失われているのは真理そのものではなく真理に対する私たちの意識だけで、比喩的に言えば、真理は聖霊によって私たちのために安全に保たれています。」とおっしゃっている。
「…神と同じように考えていないとき、あなたは本当はまったく考えていないからである。妄想的な考えは、実在する想念ではない。とはいえ、あなたはそれらを信じることができる。」(T-5. V.6:12-13)
その妄想的な考えでこの世はできている。
ここについては「私たちがどれだけ激しく狂気に信を置きそれを真実だと信じているかは誰もが知っていますが、私たちがそうしている、あるいは60億人がそうしている事実が、その非現実性を弱めるわけではありません。」と説明なさっている。
「あなたは自分が神の声をかき消してしまえるほどの声を作ることができるなどと、本当に信じているのだろうか。自分自身を神から分離させられるような思考体系を考案できると、本当に信じているのだろうか。」(VII.1:1-2)
「狂っているのは、私たちにはそれができると思っていること」だとワプニック先生。「よい知らせ」は、それが思い込みにすぎず神の記憶は今なお私たちの心にあることだ。
この節で繰り返されているのは、私たちが分離を前提に自我の世界しか意識できなくなっているとしても、それは妄想に過ぎず、真実に何ら影響を与えるものではないという点だ。
自我は「この世がすべてだ」と言い私たちを洗脳し続けている。その背景には次節で展開する「贖罪の原理に対する自我の恐れ」がある。
ちょこっと感想
4章の「贖罪の原理」、5章での「贖罪の原理」。5章のほうは聖霊の存在を反映したものとなっている点で異なっている。
聖霊(正しい心)と自我(間違った心)は対比して用いられるが、一方は真理であり一方は夢だ。
夢に入り込んでいる私には夢のほうがリアルで、真理は朧げだ。その誤った知覚を正しい記憶である聖霊の導きによって正そうとしているのがACIM。で、ワプニックさんは、前節の終わりでACIMのことを「学習解除のカリキュラム」と言っていた。
これはやはり訓練なので、理屈を学んだうえで実践あるのみだ。一度身に付いてしまった悪い姿勢を意識して矯正し、意識しなくてもよい姿勢に保てるようにするようなもの。姿勢の矯正よりもっともっと染みついてしまっている。
ACIMの実践では、いっつも「失敗した」と思うけど、それを繰り返すしかないなぁと思う。少しは進んでいるのか、あるいは変わらない、もしくはまったく見当違いのことをしていて道から外れているのか自分ではわからない。聖霊さんに添えていればいいのだけど。