2020-07-04
最終課題に向けて
2016年5月23日にスタートしたこのブログでのACIMワークは、最終課題(レッスン361~365、同じひとつの課題)を残すのみとなった。
4年余り。思いのほか時間がかかった。
最後のレッスンの前に、「最終課題-練習の前に」という文章がある。まだまだ先は長いけどともかくよくここまで来たね、と言ってくれているように優しく感じる。これはまた目的とゴールを再確認してくれる言葉でもある。
「私たちの最後のレッスンは、できる限り言葉を使わずに行う。練習のはじめには言葉を用いるが、それは言葉を超えて進もうとしていることを思い出すためだけである。」(W-pⅡ.fl.in:1.1-2)
ここから先、私たちが頼みにするのは、聖霊だ。
「私たちはこれらのレッスンを聖霊にゆだねる。同じように、これからの私たちの人生も、聖霊にゆだねる。私たちは二度と同じ罪を信じることへと逆戻りしたくはないからである。」(W-pⅡ.fl.in:1.4-5)
「真理が指し示す道を、私たちはともに進んでいこう。そして道を探していながら見出していない多くの兄弟たちを先導する者となろう。」(W-pⅡ.fl.in:2.5-6)
ACIMにおける私たちの目的は、世界を赦すこと。
この世での機能は、神を思い出すこと。
目的への道を導いてくれるのが聖霊であり、赦しの見方を授けてくれるのが兄弟だ。
「これを私たちに差し出すことのできる兄弟を、私たちは赦そうではないか。彼が道であり、真理であり、生命であり、私たちに進路を示してくれる。」(W-pⅡ.fl.in:4.3-4)
私たちは正気を回復しつつある。
神の怒りは夢だった…という。
正気の中で、怒りは狂気で、攻撃は錯乱、復讐は愚かな夢想だと理解した。
ただ私たちは「間違っていた」だけだ。
そしてそれを知った。
「自分の子が真理を理解できなかったからと言って、父親が怒り狂ったりするだろうか。」(W-pⅡ.fl.in:5.7)
ここから改めて進もうとする私たちに必要なのは、聖霊を通して、助けてほしいと願い出ることだけだ。
ACIMワークが終わってしまうのは、うれしい一方でちょっぴりさみしい。
この先、どうやってACIMとつながっていくか。
たえずACIMの考えに触れていないと気づけばわからなくなっているから、私には何らかモチベーションを保ちながらACIMと関わる方策が必要だなと思う。
と言っても、まだレッスン361~365が残っているから、これをやりながら考えよう。
世界に向かって大声で叫びたい
昨日は、半年に一度の甲状腺がんの経過観察の診察日だった。
首都圏は再び新型コロナウィルスの感染者が100名を超えたが、街はコロナ禍前の人通りとさして変わらない人通りで、もう自粛要請があったとしても自粛はむずかしいかもと感じた。
病院で、いつもは無言で超音波検査をしてくださる技師さんが、「自分では変化に気づきませんでしたか」と言われたので、それから1時間半後の診察まで「何か検査で悪い変化があったんだ」という妄想が膨らみ怖くなった。
…、でその恐怖を手放すように努めた。そして「こんなビビりで、この先ちゃんと死ねるんだろうか」と思った。
「ちゃんと死ぬ」とは具体的にどういう意味かははっきりしていないが、私の人生の目標みたいになっている。
おそらく「肉体の死」というものは幻想であり、一つの映画館から別の映画館に行くようなもの、と心から感じて、その日まで穏やかに過ごすことだろうと思うけど、今は真逆だ。
えらいビビっていたにもかかわらず、検査結果に大きな変化はなくほっと胸をなでおろした。
先生が注視なさったのは、大きさには変化はないものの、患部が臓器の中から表面の方に出ようとしているという点だった。しかし急変するものではないしと、観察続行となった。
私は、甲状腺が喉のチャクラに当たることから、これは「言いたくて言えずにいる葛藤」を表わすものだと考えるようになっていた。
私が言いたいことって何かな?
それは、
「この世は幻だってよ!」
「自分に起こることは、忘れているけどすべて自分が起こしているんだってよ!」
ってことかな。
それを、世界の真ん中で大声で本気で叫んでみたいのかな。
いやいや、もっと卑近なことかな。
前にカウンセリングを受けたことがあってその時カウンセラーさんに「私はすき間家具になりたい」って言ったことがある。
誰からも存在を気を留められない、だから傷つくこともない存在。
でも今は、それはうそだ、と思う。
それよりは、個性的なオブジェのようでいたいんだ…まったく役に立たなくても部屋の真ん中ですましている。
うそというのは葛藤だ。喉の瘤はこの世でのその因果なのかな。