2020-06-30
「全世界に平安がありますように」
「父よ、私はあなたからの平安を受け取り、それを与えたいのです。私はあなたの子です。大いなる光線が静かに乱れを知らず、常しえに私のうちにとどまるので、私は永遠にあなたに創造されたままです。」(W-pⅡ.360:1.1-2)
「私に平安がありますように。全世界に平安がありますように。」(W-pⅡ.360:1.4)
「あなたの子は、完璧な無罪性の中におられるあなたと同質のものです。この想念を以って、私たちは喜んで言います。『アーメン、かくあれかし』と。」(W-pⅡ.360:1.6-7)
ACIMを釣りに例えてみる
ようやく帰省前の自分の感じに戻った。
元の感覚に戻るまでに行っていた期間と同じくらい時間がかかるとは、やれやれだ。
ACIMワークは「最終課題」(レッスン361~365は同じひとつのワーク)ひとつを残すところに来た。
しかし、ここで改めて「東京の自分」と「故郷の自分」の解離を感じ、ACIMは主に東京の自分でやっていたことだと気づく…。
う~む、先は遠い…
つまり、こういうことだと思った。
ACIMの根幹が赦しの実践だというのは異論がないと思う。
それを「釣り」に例える。
ACIM→釣り、赦しの機会→お魚、だ。
私がやっていたのは、「釣りの素晴らしさ」「釣りの基本と応用」みたいな本を読んで、釣りって素敵だな ♪これこそ人生において究極にやるべきことだと感激、やることにした。
やるど~!と理論を勉強してやってみる。
あっ、釣れた…
でも魚…「目が合うと怖いね」「掴んだときのあのにゅるっとする感じ、やだね」と実際には釣りに腰が引けている。
そして東京でACIMの学習をしているというのは、実際には魚がいないところを選んで釣り糸を垂らしているようなものだ。
私の無意識の海において、魚がたくさんいるのは、故郷の海だ。
そう、釣りするなら故郷でやるのが、本筋なんだろうな。
そこはお魚(赦しの機会)の宝庫だ (^-^;
あ゛…故郷の海に向かわずして、ACIMのハシゴのぼるべからず、ってか。
ひゃ~、ぐるっと廻ってここに出るとは…。
とっくに知っていたような気もするし、やっと気づいたような気もする。
故郷にいながら、その自分で自分のACIMを深めることが大事、なのかな?