2020-06-26
私自身は無であっても…
「聖霊よ、私の真の本性を覚えているあなただけが、私が真に望むものを覚えています。あなたは神のために語るので、私のためにも語ります。そしてあなたが私に与えるものは、神ご自身からもたらされます。」(W-pⅡ.358:1.1-2)
「私自身は無であっても、私の真の自己はすべてであるということを、私が忘れずにいられますように。」(W-pⅡ.358:1.7)
ギックリ腰…
帰京した翌日ギックリ腰が悪化した。たんすの引き出しを引いたとき、あ゛…と腰に激痛が走りそのままへたり込んでしまった。
時々ギックリ腰になるが今回は重症のようだ。
昨日は一日横になっていた。
天井を眺めながらつらつらギックリ腰の原因を考えていた。
帰省旅はやっぱり私にとっては「非日常」で気を張っていたんだな、東京に戻ったとき張っていた気が緩んで疲れが出たんだな。
あるいはACIM的に見れば、罪悪感や後悔の念(地雷)が埋まった生家に行ったためなのかもしれない。そして年老いた母をまたひとり置いてきてしまったという直近の罪悪感…それは原初の「神との分離のこの世での再行動化」と言われるものかもしれず、だからその“罰”を自ら設定したのかもしれない(まったくもって自我からの見方をしている)。
あるいは、そもそも私は怠け者だからこうやってただ寝たかっただけなのかも。寝るための根拠として“ギックリ腰”をでっち上げたのかもしれない。。。
これらのどれかか、あるいはすべてか。
いずれにしても自分が設定した出来事だ。私にとっては良くないように見えるが、良いか悪いかは実際わからない。
今はいいとして、もう少し年取ってからこうやって寝込んでしまうと、筋力が弱りそのまま起きれなくなるのかもなぁ、どこかに不具合があると買物さえ行けなくなるんだなぁ、と未来の自分を想像して心細くなった。
やっぱり体が資本だな、大事にしなきゃ!
ACIMからほんの数日離れただけなのに、すっかり肉体重視になっていた。
ACIMに戻るのにまた『神の使者』読みから始めないと思い出せないのか…
「腹筋を鍛えること」
今朝少し動きやすくなっていたので、保険適用の整骨院を探して行った。
「繰り返すギックリ腰には、背骨を支えるための腹筋力を付けることです」と院長先生。
「体幹を鍛えよ、それには腹筋が大事→そのために家にあるダンベルのDVD(腹筋体操付き)をやるべし」というのは、ACIMのワークをしているとき、繰り返し心に浮かび、「んんっ、これは聖霊のアドバイス?」と思っていたことだ。
しかし「いやいや聖霊さんがこんな具体的アドバイスするかな、しかも肉体のことを?」と軽視していた。今回、誰のアドバイスだろうと「やっぱり私に腹筋は必要」と痛感した。もっとちゃんとダンベルのDVDやろうと思う(先生によると一日おきがよいとのこと)。
まだ混沌としていて東京の日常生活が回転していない。
行く場所によって毎度毎度自分がわからなくなるなら、キャビンアテンダントさんみたいな仕事はえらい大変だな~と思った。おそらくメンタルか自律神経か何かの調整がうまいんだろう。