2020-05-26
私とは何か
私とは何かー。
ワークブック本節の答えはシンプルだ。
「私は神の子である。」(W-pⅡ.14-1:1)
その性質は「完全にして健やかで全一であり、神の愛を反映して輝いている。」(W-pⅡ.14-1:2)
そして「私の中で、愛が完成され、恐れが不可能となり、対極のない喜びが達成される。」(W-pⅡ.14-1:3)
これが本質だ。
ACIMを通したこの世でのアイデンティティと機能
ただACIM学習者にとって言うまでもないことだけど、神は神の子は創造したが、この世は作っていない。また個々の私たちという存在も作っていない。これは、私たちが勝手にアレンジしちゃってリアルだと思い込んでいる形態だ。
そのめちゃくちゃなアレンジを取り消すのがACIMワークブックのレッスンだった。
で、ワークブックの終わりの節まで来て、イエスは「あなたと私が一緒に神に捧げたこの一年の締めくくりの日々に、私たちは自分たちが共有する単一の目的を見出した。」(W-pⅡ.14-2:2)と述べられ、さらに「こうしてあなたは私と一つにつながったので、私という存在はあなたでもある。」(W-pⅡ.14-2:3)とおっしゃる。
ここで提示されるのが、この一定の学習過程を修了したていでの「この世でのアイデンティティと機能」だ。
それは「救済をもたらす者」(W-pⅡ.14-3:1)で、「私たちは世界の救済者としての役割を受け入れ、世界は私たちの共同の赦しにより贖われる。」(W-pⅡ.14-3:2)とされる。
それはどのようになされるか。
目はキリストの心眼を通し、耳は神を代弁する声によって、世界の無罪性を見聞きし、心はひとつにつながる心となって。
そうやって「私たちが達成した一体性の中から兄弟全体に呼びかけ、彼らが私たちの平安を共有し」(W-pⅡ.14-4:4)て、その機能をなす。
言い換えると、私たちは「(前略)神の使者であり、神から私たちの元に送られてくるすべての人々に神の言葉を運びながら、それが胸に書き込まれているということを学ぶ。」(W-pⅡ.14-5:1)
「私」を手放す旅
ここで『神の使者』という言葉が出てきて、ゲイリー・レナード著『神の使者』を通してACIMの存在を知った者としては、なつかしさを感じた。
私は元々「私」に対する執着心が強いほうで、だから「自分らしく自己実現するってどういうこと?何をすればー?」とずっと探していた気がする。
しかし、ようやく答えかしらん?と思える本に出合って学んでいけば「そういう“個々の私”なんてものは存在しない、それを取り消すために…」に対峙するとは。。。
一新されたアイデンティティー、神の子であり神の使者…にどこまで近づけるか。今世で。。。