2020-05-22
再び…
「トイレの排水詰まりと、わが身の切迫したぼうこう炎(ひらがなにした)」という、月曜日に勃発した自分にとってはのっぴきならない緊急事態。
翌々日には薬のおかげでぼうこう炎の症状は和らぎ、トイレの詰まりほうもホームセンターで買った真空式クリーナーで改善できた。
…はずだった。
しかーし、甘かった。
おととい再びトイレが詰まり出した(失礼、またシモの話、続きます )。
何のことはない、本当にスッキリ解決できていたわけではなくて、問題箇所をさらに奥に押し込んだだけのようだった。
得意の「なかったことにする」戦術…?
いかにも私がやりそうなことだ…と薄っすら感動した。
手持ちの真空式パイプクリーナーでまた頑張ったけど、どこか壊したのか、水の一部が逆方向(つまり私めがけて)飛んでくるようになった。ひゃ~、顔に水が (>_<)
こうなったら、新たな道具、Amazonで見た回転式ワイヤーパイプクリーナーを入手すべきか。
だけど、疲れた。。。道具をゲットできてもすぐ立ち向かえない。。また錆びやすいらしくで、できるなら晴れた日に買いたい。。。
見えた「問題」を見る
そこで私が取った行動はー
泌尿器科のお医者さんに行く、だ。
もしかしたら、ここでも対処すべき「問題」を市販薬でごまかし続けているだけかもーと思った。
半年前にかかった泌尿器科専門病院では、これまたずっと自分の一部になったいる「過活動膀胱」の薬をもらって服用していたが改善ぜず、そのまんまだ。
この機会に、自分にとってあたりまえになっているおトイレがらみの症状に向き合うべきかも。
女医さんの開業医を探し、昨日家から小一時間のお医者さんに行った。
「心因性かもね?」
おばちゃん風受付女性の雰囲気からも前のきれいな専門病院より親しみが持てた。
先生いわく、一週間後の検査結果をちゃんと見てからだけど、
「心因性かもねー」と。
私はずっとぼうこうが悪いと思ってきたけれど、ぼうこう自体の器質的な問題ではなく心因性ー?
ワプニック先生のACIMテキスト解説本と格闘して読みながらも、「聖霊が導く正しい心のありかた」と「自我に支配された間違った心のありかた」、2つのうちどちらをとるか、その自分の心の選択が要だと教わってきた。
肉体の病気の多くは、自我の見方で罪悪感や恐怖を投影しているともいう(あらかじめ形態レベルでの経験シナリオを決めてきているともいう)が、肉体の病気というより「心に因るもの」?
ならこれまで何十年もぼうこうが弱いからと思っていたが、そうじゃなくて、私が本来ない症状を作り上げていたということ?
かなり新鮮だった。
まあ、もちろん来週の結果を診ていただいてからのことだけど。
もし、それで器質的なことではないとはっきりしたら、「行動療法をやりましょう」とおっしゃった。
「ぼうこうにおしっこを溜める訓練です。」
思い出したこと
そこで思い出したのが、3歳くらいの頃“お母さん”がすごく怖ろしくて「おもらし」なんて絶対しちゃいけないと思っていたこと。
そんなことをしたらどんな目に合うかー。
とにかくおトイレに行くのだー、早め、早めに。
それが習い性になり強迫観念みたいになっていたのかな?
「恐かった母」は、今も私にとってはすごいリアルだ。鬼の形相で叩かれるのを思い出す。
でもーそれもまた夢。無自覚ではあるが、自分が見たいと望み自らこの世というスクリーンに投射したー
私は怖かった、という思いを簡単には手放したくないのだ。
トラウマは簡単に手放せない、と思っている。
自分は「傷ついた子ども」だったというそのアイデンティティも手放しているつもりで手放せていないー
もちろん親は神の代わり。
ACIMの見方で言えば、「神との分離」をリアルにしてそれに憤怒した「罰する神」を母に投影していたにすぎない。
「許せ」ても「赦せていない」?
この部分の考えの転換ーだな、と思い当たった。
つまり「ゆるせていない」ということ。
母とのことはもう済んだ、と思っていたが、それは「赦し」ではなく「許し」で、「あなたは私にひどいこともしたけど、私はそれを大目に見て許してあげよう」的な、物事をリアルにしたうえでの誤ったゆるしで、そこから脱し切れていないのだ。
今朝、自分の心を覗いてみたら、観念「お母さんを満足させられないできそこないの子なんて叱られて当然だし、幸せになんてなってはいけない」が顔を出した。
何のことはない。向いた玉ねぎの皮の下にはまた皮があるのと同じ。観念の奥にはまた同じような観念がある。いつまで「子ども」をやっているんだ。
「怖かったお母さん」もまた本当は私が作り上げたおばけだ。
聖霊の導きによって、違う優しい穏やかな夢を見ても見てもいいんだ。
そう思った。
たぶん、まだつづく。