ACIMワークブック339-私は自分が要求するものを受け取ることになる。

2020-04-13

自分が要求するものを受け取る

誰も苦痛を望みはしない。しかし苦痛を快楽と考えることはできる。誰も自分の幸福を避けたいとは思わない。しかし、喜びには苦痛や脅威や危険が伴うと考えることはできる。」(W-pⅡ.339:1.1-4)

誰もが自分が要求するものを受け取ることになる。」(W-pⅡ.339:1.5)

彼は自分を脅かし、苦しみをもたらすものを要求したのである。

今日は、苦痛を喜びと、恐れを愛と間違えたりせず、恐れを抱かず一日を過ごせるように、自分が真に望むものだけを求めるという決心をしよう。」(W-pⅡ.339:1.8-9)

赦しのステップ復習

赦しの実践におけるステップの1は、自分が見ているものが夢だと思い出すことだった(『神の使者』より)。

しかし世界的な惨状を目の前にして、「これが夢」とは…

同じく『神の使者』には、ACIMは「21世紀と22世紀においては、ごく一部の人々以外の一般大衆の霊的なニーズには合っていない」とあったけど、そりゃそうだよな~

親しい友人にさえ、そういう見方、口にはできないもの。

しかし、ACIMは自学自習の教えだし、すべてが私から見た「神からの分離の再行動化」であり自分の罪を否定し外に向かって自ら上映している夢なんだ…

人とかなり距離を取って分離していなければ、肉体が脅かされる。自分の大切な人も脅かされ、死に至るかもしれない。自分が肉体であることを強烈に感じさせ、特別な愛を感じている人との分離不安を掻き立てる、死はまったくもってリアルだ。

これが懲罰でなくてなんだろう。

感染されうる自分は“被害者”であり、感染すれば“加害者”にもなる。不手際をした誰かを責めたくなる。

完璧とも思える自我の台本。

自分で選んだ、台本。

この「起こってはいない」結果の原因は私ー。

身に覚えがないよ。無意識怖っ。

赦しのステップの第2は、「あなたが投影したイメージとそれを夢見た私自身を赦すこと」。

これも、大きな声では言いづらいな。

罪悪感を感じる。テレビで窮状を伝える方々を見て、その幻想性を認識するというのはやはり“不謹慎”な気がしてがざわざわする。

…その気持ちを手放し、赦すことなんだろうけれど。

だれかに共感するのとその幻想性を受け入れるのとどうしたら両立できるんだろうか。その感じがいまひとつ掴めない。

「共感」じゃなくて純粋に「愛」としてひとつになる、だろうか。

そして、ステップの3。聖霊を信じてゆだね見方を入れ替える。

聖霊さん、あとは万事よろしくお願いします。

う~む。。。よろしく。。

テキストにまずインデックス付けた

今年の自分プロジェクト「テキストを読む」の手始めとして、テキストにインデックスを付けた。

アナログニンゲンでかつ自我視点寄りの私は、これは何度も読むぞ、という本にはインデックスを付けたくなる習性があるのだ。

これだけでも、相手を「分割」できて御しやすくなった気がする。

テキストが近づきにくいのは、あまりにも中身が濃いから。物理的には余白がなさ過ぎて細かい文字がたくさん並びすぎていてとてもムリだと思うから。

だから、まず小さく切るのだ。

「象の食べ方」と同じ。「一口ずつ」なのだ。

別に自分だけのプロジェクトだし、やめてもいいし止まってもいいしできなくてもいい、くらいで「一口ずつ」やろうかなと思っている。

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