2020-03-21
自分の心を攻撃しなくていい
「今日、赦しを自分の唯一の機能として受け入れよう。どうして自分の心を攻撃し、心に苦痛の心象を与える必要があるだろう。
神がご自身の力と愛を差し出し、私たちの心にすでに属しているものを受け取るようにと勧めているのに、どうして自分の心に、心は無力だと教える必要があるだろう。」(W-pⅡ.330:1.1-2)
話す=放す。話せることのありがたさ
今日は『Journey through the Text of ACIM』のシェアの会だった。
この会ではACIMのことはもちろん、それ以外の近況や自分の関心ごと、世の中で起きていることをいろいろ雑談する。
ブログにまとめ記事を書けることと、シェアできることが、ワプニック先生の本を学ぶ私のモチベーションになっている。
新しいことを知る機会が得られることもうれしいが、気づいたことが話せるということもありがたい。
最近気づいたことは、私はACIMを信じ学びたいと思っているけれど、それは意識上のことで一日24時間のうちせいぜい1時間くらい(ワプニック先生本をやっている時はその時間も)。
残りの時間は別の“宗教”に帰依していたというジジツ。
それは「こんな自分はダメだ教」。
これに気づいたのは、よく読んでいるブログの著者の方が「あれもダメ、これもダメで『こんな自分はダメだ教』にどっぷり浸っている…」と書いてらっしゃるのを見て。
「そうだ、私もその信者だ!」と思ったのだった。
24時間のうちACIMは1時間だけ~♪、あと(寝ている無意識の時間を含めて)23時間は「こんな自分はダメだ教」♬
学習が一歩進んで、一歩戻ってる気がするのは当然だ。
「こんな自分はダメだ教」は意外と心地よい。
それを信じてさえいれば、どこかに「本気を出せばすごいんだカード」もある気がして。
「こんな自分はダメだ教」と「実はすごいんだ教」はどちらも自我範囲の選択で、表裏一体なのだ。
無意識に帰依しているこうした信念も、実は自分を傷つけていることだな~と思う。
そうしたこともシェアできて笑い話にできて手放せて、またひとつ“お焚き上げ”できた気がする。
私は一見穏やかに見られるが、物心ついた頃から本当の自分を見せず斜に構えている。
でも、もっと素直になってもいいんだな。
アンタいくつだ?って話だけど。
(精神年齢はまだ反抗期なのだ)
コロナ騒動で季節の感覚がなくなっていたが、見上げれば桜。
五分咲きくらいかな。