2020-03-16
『Journey through the Text of ACIM』のざっくりまとめ。3章の6項目目「知覚 対 智識(Knowledge versus Perception)」の後半、「裁き(Judgment)」について。
「Judgment(判断)」における2つの意味
ACIMにおける「Judgment(判断)」には2つの意味があるという。
ひとつは「非難(condemnation)」。これはACIMの最重要概念で、イエスが「判断を手放さなければならない」と言う場合、他者を非難したり批判したりしてはならないということを意味している。
もうひとつは、より広い意味で「選択性(selectivity)」。「選択できるものがある」という二元性を前提としたものだ。
この世界においては、後者の「選択性」という意味の判断は生きるうえで自然で不可欠である。ワプニック先生はご自身の執筆や車の運転などの例をあげて、色、音、触覚といった五感への刺激に対して私たちが無意識に行っている選択について説明なさっている。
また、この選択は、自我の判断に対して聖霊がなす訂正の基礎となるという。
「最後の審判(the Last Judgment)」の「審判」
「判断(Judgment)」については、2章の「最後の審判(the Last Judgment)」でも論じられていた。
真の最後の審判とは、キリスト教における意味合いとはまったく異なり、自我とそれが作り上げた世界に対して「これは私が信を置いて現実としているものではない」と判断をして贖罪の真実を受け入れることだと説明されている。
「『審判』とは象徴的なものである。なぜなら、知覚を超えたところに裁きはないからである。」(T-3.Ⅳ.1:3)
知覚的なもの、象徴的なものはすべて二元性だ。
そして、象徴として用いられているもの(形として現われているもの)より、それが何を象徴しているのか(何を表しているのか、表そうとしているのか)が大事である。
「人間関係を癒す」ことは、「神の一なる子としてのアイデンティティに戻ったという自覚」を象徴するのだと説明なさっている。
「裁きとは、智識ではなく知覚を土台とするプロセスである。私はこれについてすでに知覚の選択性という観点から語り、評価することがその明白な必要条件であると指摘した。」(T-3.Ⅵ.2:2-3)
ここでは「評価」について論じられている。評価は、評価する対象があるということで二元性の世界にいることを証するものであり、その上で「自分には自分にとって何がよいかがわかる」という前提に立っている。
しかしこの前提は正しくない。明記はされていないが、真の評価というものは私たちにはできないということなのだと思う。
裁きと拒絶と、抑圧と
「裁きは常に拒絶を伴う。(中略)知覚されて拒絶されたものや、裁かれて不完全と見なされたものは、すでに知覚されたがゆえに、あなたの心の中に残る。あなたが陥っている幻想の一つに、自分が裁いた対象からは何の結果も生じないという信念がある。」(T-3.Ⅵ.2:4-7)
ここでイエスは「抑圧」のことを言っているのだという。
抑圧とは、それを現実とした上で「受け入れがたい」と判断し、否定、拒否したものだ。
抑圧したものは、認められないがために無意識に沈められる。しかし沈められてもなくなりはしない。必然的に夢に表れたり他者に投影されたりする。無意識は目を向けられることを望んでいる。
「コースは私たちが無意識に対処しなければ、感染症のように悪化し最も不幸な結果につながってしまうと力説しています」(ワプニック先生)という。
そして、イエスの口を通して「赦し」が言うこととして、次のように記述されていた。
「これまでにあなたが他の人を非難したことに目を向けなさい。あなたが内緒にしながら自分を責めていることを鏡像として見るだろう。私はあなたの問題を見せているのだから、あなたは問題に対処できる機会を得ているのだ。」
繰り返し出てくるこうした表現は、否認、投影とACIMのプロセスについてわかりやすく説明されていると思う。
裁きを手放せば気分が良くなる。それは、裁いているのは実は常に自分自身だから。
イエスは「兄弟がしていないことについて兄弟を赦すように」(T-17.Ⅲ.1:5)と教えている。
裁きを手放すのは難しいが
しかし、「裁き」を手放すのは難しい。
それは、裁きが私たちという存在の礎石のひとつだから。
「つまり、裁きとは罪を指す別の言葉に過ぎず、礎石というのはまさにそのとおりなのです。」とワプニック先生。
その背景には、神に対する裁きがあるのだという。
私たちの「神の愛は十分ではなかった」という思い。だからこそ、その神を裁いて神から離れるという「輝かしい」結果を出した。そうした存在意義を示す根幹のストーリーが崩れてしまうから撤回ができないのだと。
後の方に、判断を手放すべきだと言っても、この世で、何を着るか、どこへ行くか等一般的な判断を下すべきではないという意味ではない。そうではなく「判断のうちに内在する攻撃的考えはどんなものであっても正当化できないということです。」と説明されている。
抑圧したその行先
「知覚はしたが受け入れることを拒んだ一切のものを、あなたは非常に恐れている。それを受け入れることを拒んだので、それに対する制御力を失ったと信じている。だから、あなたはそれを悪夢の中で見たり、あるいはもっと楽しいと思える夢の中で快く偽装されたものとして見たりする。」(T-3.Ⅵ.4:1-3)
抑圧されたものは夢として出るというフロイトの理論を、イエスは眠っている時も目覚めている時もすべての「夢」に拡大解釈した。その上で、その夢における他者との関係(特別な憎悪の関係、特別な愛の関係)に目を向けるように、それは心が選んだ教師だ、と述べている。
拒否したものは、それ自体が危険なのではなく、私たちが受け入れがたいと判断したがゆえにそのようなものになる。
そうした解離が行きつく先は、「激怒した神」という原型なのだという。
なぜこんなにも疲れているのか
「絶え間ない裁きがもたらす緊張は、事実上耐えがたいものである。これほどの衰弱をもたらす能力が、そこまで深く大切にされているとは、奇妙なことである。だが、あなたが実相の作者となりたいなら、あなたは裁きにしがみついて譲らないだろう。」(T-3.Ⅵ.5:6-8)
「ここにいる(と思っている)」ということは、「実相の作者となりたい」と思ったということで、そうだからこそ、裁きを手放せないし「分離はしていない」という贖罪を遠ざけておきたいのだという。裁きがもたらす緊張状態は耐えがたい。それでも「我こそは、自分と世界を作った」のだと死守したいのだ。
この固執に伴う罪悪感(自分に対する裁き)、否認、抑圧、投影、裁き、緊張、疲れ…これらは、全部セットだ。
「私たちはとっても疲れています。教師のためのマニュアルの冒頭でイエスは、『今この世界は非常に疲れている』と言っています(M-1.4:4-5)。そしてこれは1972年に書かれているのです!私たちはその頃よりさらに疲れています。」とワプニック先生。
私たちは、ワプニック先生がこの解説書を書かれた時より、おそらくもっと疲れている。
「しかし、それでも、なぜ私たちは社会としても個としてもそんなに疲れ、病み、いらいらしているのか、その疲労の原因を考えるために立ち止まろうとはしません。真の原因は、裁きからの緊張ですが、より核心を突くならば、心の中の裁きを守ろうとすることによる緊張です。」
そしてこれに対処するため私たちにはイエスの力を借りてできることがある、と続き、次節「イエス」へと入っていく。
読み終えて
また長くなってしまった。ふぁ。
今、世界中が見えないウイルスに怯え戦って疲弊している。テレビのニュースなどで圧がかかって増大した不安や恐怖を、他者に投影して非難したり差別したりしている状況を見る。
ACIMでイエスが言っていることは、本当だと思う。外のひとつの出来事を解決しても、また別のかたちをとって問題は現れる。心の内側を見なきゃだめなんだ。
そして、私は私だから、私の心に対処すべきなんだ。。
ここ数年「とても疲れやすい」と感じている私は、ワプニック先生おっしゃるところの「心の中の裁きを守ろうとすることによる緊張」で疲れているのかな。必死で裁きを手放したくない、、、と思っているのかな。。。おそらく。
お久しぶりです(*´ω`*)
いつも勉強になる記事をありがとうございます。
この頃「抑圧」「投影」について学び直したいと思っていたので、今日の記事は本当に嬉しかったです。
世界は本当に疲れていますね。
でも、自分の心を癒やすために、これら見ていると思っているものすべてを使うことができる、と考えると、とても勇気づけられます。
奇跡講座を学べること、それを通じてtamasoniaさんを知ることが出来て、その事にも感謝です✩
それでは、また。
お返事はお気遣いなく♡
ふうせんさん
いつもありがとうございます。
昨日、ブログ書きながら、「ふうせんさん、元気かな?」と思っていました。
…というのは、ワプニック先生の解説本で「私たちはその頃よりさらに疲れています。」とあって、これいつ書かれたのかな、と署名で検索したら、MASATOさんの「ACIMメモ」ブログが出てきて、何となく「ACIMメモ」を最初からすこし読んでて、そいで、ふうせんさん元気かな、と思ってたのです。
ふふっ、よかった(^-^)
自分の理解度で書いているから、ちゃんと捉えられてなかったらごめんなさい。
いえいえ。
tamasoniaさんの文章は、私を正しい心に導いてくれている気がします。
いつも私が必要としている時に必要な答えを与えてもらっている気がするのです。
これって、17日のブログの中の文章にあったことなのかな?
✢✢✢
イエスを教師として選べば、答えは(日本人なら日本語で、音楽家なら音楽を通してなど)その人に受け入れやすい形でやってくるという。
✢✢✢
tamasonia(聖霊)さん、ありがとう(^^)
ところで話は変わりますが、17日のブログの中で「灯台が船を追い回すのではない」という例えが面白すぎてツボでした(笑)
ふうせんさん
ワプニック先生はユーモラスな例えをなさる方ですね。あ、今、訳を見たら、「灯台は彼らを追い求めてはいません」でした!「追い回し」ではなく。
私、誇張してました(・・;) あ゛…
これはFACIMの会報誌を「The Lighthouse(灯台)」と名付けた理由だということです。
私こそ「中途半端なことして、優先順位まちがえている」という“罪悪感”に対して、力づけ癒されました。
ありがとうございます。
あ、誤字発見。
「署名」ではなくて、「書名」です。すみません。