『Journey through the Text of ACIM』(21)-3章 恐れ、抵抗、そして贖罪の原理(後半)

2020-02-06

(前半からの続き)

朗報は「それは決して起こっていない」こと

私たちは、ACIMでイエスが教える真実に惹かれるものの、一方で近づくにつれとてつもない恐怖を覚えるという。

それは、学習者が未だ「分離は事実」だという視座にありながら、ACIMの学習によって心の奥底に埋めこんで見ないようにしてきた「取り返しのつかない過ちをしでかしてしまった(罪悪感)」、「ぜったい神に報復される(恐怖感)」という感情を見ることになるから。

「朗報(the good news)」は、「分離は起こっていない(the separation never happened)」ということだとワプニック先生。

心がいくら強力だからといって、まったく起こっていないことを現実にしたり、自我の誤った信念を真実にしたりする力まではないとおっしゃり、テキストの関連箇所をいくつか紹介なさっている。

したがって、たとえ自分ではそれができると考えたとしても、誰も真理を全面的に否定することはできない。」(T-3.Ⅱ.1.8)

あなたは真理でないものを真理にすることはできない。」(T-3.Ⅱ.6.2)

あなたは神の力を横領しなかったが、それを失ったことは確かである。幸いなことに、何かを失うということはそれ自体がなくなったことを意味してはいない。それはただ、それがどこにあるかを思い出せないというだけのことである。(以下略)」(T-3.Ⅵ.9.2-4)

自らを欺き続ける2大手法

神とその力は失われ自分の内にはもうないと思っているけれど、忘れているだけ、そして忘れているということすら忘れているのだという。

も~、おっちょこちょいなんだから。

…ってだけではなくて、実は姑息で、自分で「贖罪の原理」と「聖霊の臨在」を隠していてそれで自分の中の神に近づけないのだという。

隠した手法は2つある、とワプニック先生。

ひとつは、自我の間違った思考システム(罪、罪悪感、恐怖)を信じること。

もうひとつは、(決して起こっていない)分離を事実だと固持していること。

この2つによって、私たちは本来の心から引き離され「心のない肉体(mindless bodies)」として死んで終わりの存在になった(自分でした)のだとおっしゃっている。

答えを求めるなら、聖霊とともに自分と世界を見る

しかし、「奇跡はただ私たちがどこに目を向けるべきかを思い出させてくれます」と続く。

平安は、霊が自然に受け継いでいる賜物である。誰でも自分が相続した遺産を受け取ることを拒む自由はあるが、どんな遺産を相続するかを決める自由はない。」(T-3.Ⅵ.10.1-2)

私たちは自らのアイデンティティーを勝手に変えることはできない。

「私って誰?」という真のアイデンティティーを知りたいなら、「何年も心理療法を受けたり必要も最新のスピリチュアル系、心理系のものを探したりする必要はなく」、「聖霊とともに自分を見つめ直し、答えがあるところで解決策を見つけなければなりません」とおっしゃり、その自分の内を見る方法は「外側を聖霊の目を通して見ること」だと述べられている。

外側を聖霊の目を通して見る、とは、ひどく簡単に言うと「いつも機嫌よくいること」かな、と思う(私見)。突き詰めると外の出来事に一喜一憂せず、心が平穏で幸せか、ざわついているか、じゃないかな。 

これは「言うは易く行うは難し」の典型だと経験上よく知ってはいるが。。。

難しいよ~、人のことだと「分析」できるけど、いざ「渦中」に入っちゃうと((+_+))

正しい知覚を得るまでは、攻撃し続けてしまう

解説本に戻って、この節の締めくくりへ。

正しい心から見ることができるようになれば、真実を喜べるようになる、しかし、それまでは攻撃してしまう、といったことがテキスト(T-3.Ⅶ4)あたりに書かれている。ワプニック先生も「赦しの助けを得て、この(自我の)思考システムと自分を引き離して考え始めると、私たちがすべてをでっち上げたんだという事実を感謝して受け入れられるようになります。」と述べられている。

それまでは、嘘を暴こうとする考えや人を攻撃してしまう。

直接的に攻撃することもあれば、間接的に攻撃することもある。神にこの世の何かを変えてほしいと頼むのは、ACIMが教えていることを否定し真実から遠ざかる方法なのであり、間接的攻撃なのだとおっしゃっている。

だから、「くどい」と思っても(ごめんなさい)、何度も何度も繰り返し、ということなんだな、と納得。。

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