2020-02-05
“旅”の進みぐあいと苦手意識
ワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の“私の旅”は、3章の中盤に差し掛かっている。
ここしばらく、読んだはいいがシェアの会までにまとめが間に合わなかったということが続いたから、とりあえず少しずつ書くことにした。
仲間とシェアしているとき、「これって31章もあるけど、どの節読んでも重要って言ってること、金太郎飴みたいに同じだよね~?」と笑い話になることがある。
そう、それはまさしくワプニック先生が「(ACIMの)交響曲」と称されるとおり。根幹の主題を楽章(節)ごとに手を変え品を変え、美しいハーモニーを奏でるかのように、湖面のさざ波が光できらめくかのように、様々な角度から微妙に表現を変えて私たちの意識に沁み込むように説明してくださっている。
しかし、残念なことに私は「手を変え品を変え、微妙に表現を変えながら」がどうも苦手みたいだ。なるたけ短くシンプルに。それを愚直に繰り返したいほうなのだ。
私は情報が多くなればなるほど、ん?ん?と引っ掛かり、わからなくなってしまう。本来そのまま味わうべき“芸術作品”であるものを、まとめようとしちゃうからかな?
とりあえず3章の(序文を抜かした)3節目、「恐れ、抵抗、そして贖罪の原理」のところへ。
本節は、ACIM学習に対する抵抗感にフォーカスする
前節までのところで、私たちの心が持つ力は非常に強力なことを見てきた。しかしこでまでずっと、その「強い力」を逆向きに用いて「心には力がない」と思わせてきたのだという。
ACIMは、この誤りに気づかせる道(ツール)である。
ACIMを読んで、私たちのある部分が反応して、「お~、そうか。素晴らしい」と思う。でも、私たちは心の奥底では気づきたくはないのだという。
それがACIM学習(読むこと、学習すること、人生に応用すること)に対する抵抗感である。
この節はそこにフォーカスする。
そもそも、この世の言葉で、愛や光としてしか表せない何か、それだけがあった(今もある)。
私たちは、そこから離れたと思い込んだ。
なので、私たちがいると思っている世界には、愛、光が欠けている。
「もし、私たちが贖罪を光で象徴するならば、分離は光の欠如として表されます。そして私たちは贖罪を遠ざけておくために自我を選びとり、その結果、光の欠如がすなわち闇というわけです。」とワプニック先生(訳はだいたい)。
それから、そこに私たちは、「世界」と「個としての自分」を作った。
ACIMはその闇の世界に光をもたらす方法を教えてくれているが、私たちは、個としての自分を手放したくない。自分をなくしたくないのだ!
ACIMに従えば、究極的には「私の人生」と呼んでいるものは消える。
これがACIMへの抵抗(恐れ)の根幹である。
ワプニック先生はここの部分を「だからこそ、私たちはある部分では、もしACIMが言っていることを受け入れて生きたとしたら、人生(our lives)は違ったものになるだろうと知っています。はっきり言えば、突き詰めると私たちが人生と呼ぶものは消えます(disappear)。」と説明されている。
ここで「our lives」を「人生」としたけど「命」かな??
いずれにしても消えては困る。大問題だ、やっぱり。
コースを信じると物事が悪くなる…?理由
こうしたことを踏まえて、ワプニック先生は「このコースを信じるとなぜ物事が悪くなるように見えるかに意識を向けます。」と続けられる。
さらっと書かれているけれど、「信じると物事が悪くなるように見える」のはACIM学習の“標準仕様”なの?という私の疑問は脇に置いておく。
「あなたはまだそこまで戻っていない。だからこそ、こんなにも恐れを抱くのである。はじまりに近づくにつれて、あなたは自分の思考体系が破壊されるという恐れをあたかもそれが死に対する恐れであるかのように、自分の身に感じる。死というものはないが、死を信じる信念は確かに存在している。」(T-3.Ⅶ.5.9-11)
ACIMに近づくと、それまで「自分とは」を形づくってきた思考体系が破壊される。それが、自我にとって「死」の観念を呼び起こし恐れる。
また別の言い方をすれば、心に近づけば、隠していた神から離れてしまった「罪悪感」をまともに見ることになってしまう。
これまで、自分は脳という司令塔の秩序の元に成り立つ「肉体」だと思い、他のいくつもの「肉体」との関わりで「私の人生」を作ってきたと信じている。
そのうえで、自分の罪悪感は見ないことにして投影という都合のいい手法で「罪は私ではないあの人にある」とすることで、生きながらえてきた。
ACIMを学習することで、この“催眠”が解けかかる。
心が不安定になるのは当然なのだ。
ズバリ!「これは恐怖です。」とワプニック先生。
とてつもない恐怖だ。
そこに自我の脅しのパンチが飛んでくる。
「このままイエスに従って赦してみろ、やばいことになるぞ。やつに見つかるぞ。そうだ、神だ、復讐に燃えてる。一網打尽だ。逃げ切れないぞ。お前、絶滅したいのか。」(ちょっと私がインパクトつけた)
ワプニック先生は「恐怖におののいた私たちは、友の“安全な”腕の中、つまり罪、罪悪感、死へと駆け込みます。こうしてまた、自分自身と他者を攻撃するのです。」と説明されている。またこうしたことは「自らをこの(自我の)思考システムと同一視している程度に応じて」生じます、と付け加えられている。
「決断の主体」の視点に立つことと、盲点に注意
したがって、そこから抜け出すには、自我と自分の同一化の程度を下げ、観察者である決断の主体に立つことだ。
そうすれば、消えるのは、真の私たちではなく「古い自己」だとわかるという。
このしくみを意識しておかなければ、否応なく逆戻りしてしまう。
ここで「霊的な特別性(spiritual specialness)」という盲点があると指摘されている。それは、「この素晴らしいコースの学習者になれば、赦しのワークをなさずして素晴らしい存在になれる」と考えてしまうことだという。
そうなると、必ずや、ACIMの解釈を都合のいいように歪めて、攻撃を温存してしまう。
重要なのは、ACIMに近づくことには、恐怖があるのだと肝に銘じておくこと。
そして、それは単に光に対する恐れなのだと知っておくことが、真に癒される道なのだとおっしゃっている。
3節はまだ続く。もっと要領よくまとめたかったけど、また長くなってしまった。(後半へつづく)