ACIMワークブック319-私は世界の救済のために来た。

2020-01-29

「私は世界の救済のために来た」

これは、あらゆる傲慢さが取り去られ、真理だけを残している考え方である。」(W-pⅡ.319:1.1)

傲慢さがないとき、真理は即座にやってきて、自我が嘘で満たさずにおいた空間を埋める。限定されうるのは自我のみであり、だから自我は、半端で限界ある目標を追求せざるをえない。」(W-pⅡ.319:1.3-4)

自我は、ひとりが得るものは、必ず全体から失われると考えている。しかし、ひとりが得るものはすべての人に与えられるということを私が学ぶことが、神の意志である。

世界の救済以外の目標を、あなたが私に授けることがありえるでしょうか。これ以外の何が、私の真の自己があなたと共有する意志でありえたでしょうか。」(W-pⅡ.319:2.3-4)

映画がどんなにリアルでも

私が身近な人に「私ね、世界の救済のためにこの世に来たんだ」と言うと、かなり引かれると思う。私も誰かに言われたら「そうなんだ~」と受け流しそそくさ話題を変える。

だけど、ちゃんと真実と本音に立ち返って考えれば…

この世は映画のように「自分の心」を世界というスクリーンに映し出して見ているだけ。これは投影された「結果」にすぎない。

それをどう解釈するかが大事。誰とともに世界というスクリーンを見るのか。エゴか、聖霊か。

そこで映し出されたなかから何に共鳴するか。

自分の心の反応こそが、自分がリアルにするものである。罪と罪悪感、恐怖、死、怒り、争い、復讐…を「あり」とするのか、愛、平穏、赦し、豊かさ、感謝…を「あり」とするのか。

そう考えると、「私の心」を決めるのは、今、私と思っている意識なのだから、これを「救済」するのは私、ということになる(まあ、理屈の上では…)。

そして「救済」とは、自分の心の「信」を神に置き、日々抱く思いに赦しを重ねていくことだ。

スクリーンに映し出された映画がどんなにうまく作り込まれていても、そこで「悪」「攻撃」に怒り狂って映画館で斧を振りかざしてスクリーンを切りつけては、いけない。ACIMのハシゴから真っ逆さまに落ちちゃう(まあ、下の段にいる私は落差はちょびっとだけど)。

前よりは、こういうしくみ、からくりを覚えていられるようになった気がしてる。まあ、いま負荷がほとんどかからない生活をしているからにすぎないけど。

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