2020-01-22
“ユルい春子”さん、44年ぶりに人前でピアノ演奏
私がすっかりファンになって何度かこのブログでも書いている「すべてがユルい春子の日記」の春子さん。彼女を私が「えらいな~」と思うのは、朝7時半~夜8時半までのパート勤務をこなし(サービス残業多すぎる)「ピアノの練習時間がない」と嘆きながらも、毎日かかさずブログを更新しているところだ(しかもけっこうな長文)。
その春子さん、13歳で止めたというピアノレッスンを昨年春から再開し、先日「ピアノの発表会」で44年ぶりに人前での演奏を成功させた。
パチパチパチッ(拍手)
演奏しながら「多幸感と万能感を感じた」という春子さんを、私は自分のことのようにうれしく感じた。
同類を求めたはずが、覚醒してぶっ飛ばしていた春子さん
ユルい春子さん、そもそもは、“すっかり社会から浮いてる、ああ、だめだ”と思っていた私が、“同類相哀れむ”べく「日本ブログ村」で50代、シングル一人暮らし、長年ひきこもりで「すべてがユルい」と自認するブログをみつけて読み始めたのがきっかけだったと思う。
しかーし、私が読み始めた昨年4月にはすでに彼女は“覚醒”していた。
ご本人も振り返ってブログに書いているが、
「去年のはじめごろに『ピアノ、もいっかいやりたいなあ』って思う(ピアノでの芸大受験を思いつく)
→3月、カウンセラーO先生に相談すると『やったら?』
→4月、ピアノの先生見つけてレッスン開始
→7月、音出し可の賃貸マンションへ引っ越し、グランドピアノローン購入
→9月、旧居のマンション売却。」
…と、ちっともユルくない。おいおい話が違うじゃないか、と思ったものだ。
で、レッスンと練習を重ね、今年1月の発表会で「シューベルト:楽興の時 第4番 D780/4 Op.94-4 嬰ハ短調」を暗譜して演奏。
すごいなぁ。頑張ったなぁ。
突然断たれたピアノレッスンと後のゆるし
そもそも好きだったピアノを彼女が中1で止めたのは、親に突然止めさせられたからだったという。どうも経済的な事情もあったらしくその負い目を隠すためか春子さんのお母さんは、その後春子さんがピアノに触れるとひどく怒り数年後にはピアノを売り払ってしまった。
それがトラウマになりピアノに近づくことに「罪悪感」を植え付けられたのか、彼女は長年ピアノが好きという感情を思い出さなかったらしい。
ブログではお母さんは、生い立ちがとても厳しく娘たちにも辛くあたっていたことも書かれていたが、春子さんは大人になって心理学講座などを受講して自分の心の縛りを紐解いていき、「母ちゃんは母ちゃんなりに自分を愛してくれたんだな~」と感謝するようになっていた。
いわばゆるしだ。
もちろん、この「ゆるし」は「許し」であって、ACIMでいうところの「赦し」とは違うけれど。
そうして心を緩めていって、自分もゆるせるようになり、一昨年実行したのが「80日間北海道放浪の旅」。軽自動車の車中泊で大好きな北海道の自然を満喫するという旅だった(その頃もうユルいというよりぶっ飛んでいた)。
ゆるしが心を癒して「心の力」を発揮する?
ピアノの発表会を終えたあと、春子さんは読者さんからのコメントをきっかけにその旅を振り返る。(以下、春子さんブログより↓)
「ブログを読み返していて仰天したのは、『北海道放浪19日目|道の駅「まるせっぷ」で、CD丸々1枚ピアノ自動演奏を聴かせてもらう』ってヤツ。
2018年7月18日、道の駅『まるせっぷ』へ『ここは、グランドピアノの自動演奏が聴けるので楽しみに来た。』とオノレで書いてある。(中略)
大問題なのは、この2018年7月18日の時点で、ワシは『グランドピアノなんて一音も弾く気がなかった』ってことだ。
鍵盤にふれるつもりすらまったくなかった。
てか! 自分でピアノを弾く気が本当にまるっきり完全になかった。生ピアノなんてモノは、ありゃあヨソの惑星の住人が弾くもんだと思い込んでいた。電子ピアノは持ってたけど、手が痛いのでほとんど弾いとらん。2018年の1年間で39分間しか練習してへん。
で、その1年後、2019年7月20日、ウチにグランドピアノを搬入しとる。(中略)
いやあ、ワシの脳ミソのつくりってどないなっとるねん?! なぜにどうしてこんなコトになったのかっ?!
それは、だ。単に『思いつき』で『そのときやりたいと思ったこと』を『あとさきなんにも考えず』に『すぐにやっちまった』だけなのだ。
ほう、なるほど。ま、つまり『潜在意識』って『高性能レーダー』をそなえてるんじゃねえの? 『しあわせ』の方向をピシャッと探知してくれる。自動的に照準を合わせてくれる。
『放浪してみろよ』ってそそのかされて、ああハイハイって出かけたら、やっぱり北海道はむちゃくそすばらしかった。
『ピアノやれよ』ってけしかけられて、へえへえってはじめたら、やっぱり発表会でめっちゃ楽しかった。
ふうん、『思いつき』とか『魔が差した』とか、そんなんでウマくいくんやねえ。」
と書いておられる。
これを読んで、他者をゆるすことが自分をゆるめることになり、それが自ずと幸せで平和な状態に向かおうとする心(潜在意識)をはたらかせたのかな~と感じた。
それは、『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の先日読んだところでワプニック先生がおっしゃっていた「心の力」にも通じるところがあるような?
聖霊の世界の住人になる第一歩は、好きなことをやること?
だいたいにおいて、ACIMは聖霊の立場から書かれているから、この世の私たちには高尚すぎな感がある。が、春子さんの「好きなこと」に対して「思いつき」で動いてみる、というのは具体的でわかりやすい。
ACIMのハシゴの下段にいてACIMは難しすぎると感じているならば、聖霊の世界に近づく最もとっつきやすくわかりやすい方法かも?と思った。
そこで、はた…自分のこと。
じゃあ、私は…?
春子さんの「発表会無事終わりました、幸せでした」報告に喜んだ私は、彼女に己を投影し感情移入しているのは明らかだ(正しく言えば、私の心が映し出されて「春子さん」が出現している)。
じゃあ、春子さんのピアノに該当するものは、私にとって何?
自分は忘れているけれど、もしかしたら、何か埋まっているから揺さぶられるのかな?
私はワプニック先生が言う「心がもっている強力な力をあたかもないかのように自分を偽っているだけじゃないのか」という疑念が湧いてきた。
私のなかには常に「どうせ」感がある。
どうせ私なんて、だってもう歳だし、やってもちゃんとは無理、どうせ死ぬんだから。どれも「分離」したエゴの見方をベースとしている。
ACIMを学んで、それに「すべては幻想」「執着してはいけない」が加わり、さらに虚無を増しているような?
ACIMが勧めているのはそういうことじゃないよなぁ?心を無にすることとは違うよなぁ?
心のアンテナをオンにして、幻想の空間と時間であってもここで体験する価値あることってあるはずだよなぁ。それはACIMの勉強、とは違う(これは好きというのではない)。
この世でのゆるしの第一歩は自分に好きなことをゆるすことかもしれないなぁ。「今さらこの歳で何寝とぼけたことを」とツッコむ自分もいるけど、もし何かあるとすればそれは何かな~、とふと思う。