ACIMワークブック316-私が兄弟に与える贈り物はすべて、私のものでもある。

2020-01-14

私は自分自身に贈り物しているだけだ、たとえわかっていなくても

兄弟からの贈り物がどれも私のものであるのと同じように、私が与える贈り物はどれも私に属している。

そのどれもが、過去の誤りを除去し、父が愛する聖なる心から誤りの影を消し去る。

すべての時を通し、あらゆる時を超えて、兄弟が受け取った一つひとつの贈り物の中で、神の恩寵が私に与えられている。」(W-pⅡ.316:1.1-3)

父よ、今日、私はあなたの贈り物を受け入れたいのです。私には贈り物が認識できません。

それでも、贈り物が私に見えるようになってそれらの価値が理解され、それらだけを自分がほしいものとして大切にできるように、そのための手段を、その送り主であるあなたが与えてくださると信じています。」(W-pⅡ.316:2.1-3)

なぜかこの世の色が濃くなった、ACIMのことはぼわんとしている

お正月が終わり成人の日を含む連休が終われば、いよいよ一年の日常の本格スタートだ。

無職にとっても。

私は帰省中ACIMワークやACIMのことからすこし離れていたためか、ACIMって何だっけ?とまだぼわんとしている。一方帰省して親や妹など近しい(濃い)関係の中にいたためか、この世の中が生き生きと濃く見える(いつもはもっと彩度が低く見えていた)。

もしかしたら私にとってACIMはエゴがこの世から退避する言い訳になっていやしないか。そして東京の部屋はそのエスケープスポットでは…?(たぶんそういう面もある)

一方でこれまでちまちまACIMをやってきた効果なのか、自分の罪悪感が前より減って生きやすくなっているのも感じる。色が濃くなったこの世ってキラキラして見えて楽しそう、もっとここで生きたいと思う。

…自分の状態がなんだかまだわからない。

こういう「わからなくなったとき」は『神の使者』を初めから読むのが通例だったけど、今回はその気持ちの余裕がない。

なぜならワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のシェアの会が近づいているけど、先月14日の会以来、いっさい読んでなかったから~!

先月16、17日なんとかブログ記事にまとめた後は、いい気になって英語から解放されてた。

そして年末モードに突入…帰省…、異次元に行って帰ってきて…、

あ゛、な~んにもやってない。生家でテキスト部分の訳だけノートに写したっけ(母がそれは何をやっているのかとしつこく尋ねてきた、「仕事か」と聞かれ、「そうだ」と答えた、まぁ私にとっては「しごと」だ)。

ふと我に返りノートを開いたのはおとといのこと。チラッと英文を見たけど、読解できない。明らかに退化してる。翻訳比較サイトにそのまま張り付けて読む。集中力も続かなくて進まず。

前に「ACIMメモ」のMASATOさんが「ACIMを英語で読むためには」の記事で「毎日少しずつ勉強することをお勧めします(1週間に1回7時間やるよりも、毎日1時間を7日続けた方が効果的)」とアドバイスしてくださっていたのと真逆のことをしている。

英語プレッシャーから解放されたあと、うれしすぎてぼーんと離れてしまい、なかなか戻ってこれないのだなぁ。次回は離れてしまわないようにしよう。

別に自らやっていることだから、やらなければならないというものではないけれど、とにかくこれを少しでも進めたい。そうこうしているうちにACIMや去年の自分ともつながってきそうな気がする。

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