2019-12-23
最後の審判とは訂正という贈り物
「最後の審判」は、この間テキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』2章でも見たところだ。
JTTAにはテキストから「『最後の審判』は正しい評価のプロセスと呼ぶことができる。これは単に、誰もが最終的には何に価値があり、何に価値がないかを理解するようになる、という意味にすぎない。(T-2.Ⅷ.3:5-6)」と引用されており、「最後の審判」は神の子のエゴに対する最終的な審判であること、そして一般にイメージされる処罰などではなく神の子にとっての最終的な癒しであることが記されていた。
それはここワークブックでも同じだ。
「世界に下される最後の審判に咎めは含まれていない。それは、世界は完全に赦されたもの、罪のないまったく無目的なものとして見るからである。もとより原因はなく、今やキリストの機能もなくなった世界は無に帰するのみである。(W-pⅡ.10.2:1-3)」
「あなたは神の最後の審判が、世界とあなたを有罪と宣言して地獄へ落すと信じていたが、今、神聖な真理を受け入れなさい。
すなわち、『神の審判とはあなたのすべての誤りに授けられた訂正という贈り物であり、そうした誤りや、それらがもたらしたかに見えていたあらゆる結果からあなたを自由にするものである』という真理である。(W-pⅡ.10.3:1-3)」
JTTAにも「最後の審判」が私たちに恐れを抱かさせること、それは神による罰というすでに持っている観念が強いこととともに「最後」という語が「死」をイメージさせることが記されていた。
これに対し、ワークブックでも、「愛を恐れることはない。愛だけが、すべての悲しみを癒し、涙を拭い去り、神が自らのものと認める神の子を苦痛の夢から優しく目覚めさせることができる。このことを恐れてはいけない。(W-pⅡ.10.4:2-4)」とある。
だから目を覚まし…
「神の最後の審判はこのように告げている(W-pⅡ.10.5:1)」から始まる最後の段落は、一編の詩のようだ。
「『あなたは今でも神聖な私の子である。
永遠に罪に穢れることなく、
常しえに愛し愛され、
あなたの創造主と同じように無限であり、
完全に不変にして永久に清らかである。
だから目を覚まし、
私のもとに戻りなさい。
私はあなたの父であり、
あなたは私の子である。』
と。(W-pⅡ.10.5:1-3)」