2019-12-21
恐れず、愛を抱いて、今日を過ごす
「父よ、私はこの一日をあなたとともに過ごします。」(W-pⅡ.310:1.1)
「今日という日は、私にあなたを思い出させるためのあなたからの優しい促しであり、わが子に対する恩寵に満ちたあなたの呼びかけです。」(W-pⅡ.310:1.4)
「今日、私たちの中に恐れが入り込む余地はない。私たちは胸に愛を迎え入れたからである。」(W-pⅡ.310:2.4)
どうでもいい、とは思えない肉体のこと
12月中旬気づくとこのワークで一週間過ごしていた。
そして、今は違うワークをやっているのだけど、昨日は戻ってこのレッスンとともに過ごした。
昨日は、今年最後の病院の検査の日だった。
甲状腺の良性(右)と悪性(左)の腫瘍の経過、肺のガラス状陰影…
検査結果に恐れを感じていた私には「この恐れず、愛を抱いて、一日を過ごす」というシンプルな言葉がよかった。
どれも重病の方から見たら軽微なことだ。そして私は肉体ではないと学んだのだから、肉体が病もうが病ままいがどうでもいいのかもしれない。
しかーし、人一倍体に対する執着心が強い私が、「そのことはどうでもいい」と本心から思えるまでにはまだまだ修行が必要そうだった。
前日には「自分にとってのわるい結果」を想像しそこで浮かんでくる恐怖心を感じて、手放すよう努めた(これは『「ザ・マネーゲーム」から脱出する方法』で具体的に書かれていた方法)。
以前ほどの強い恐怖感は浮かんでこなかったけど、それでもやっぱり緊張していたのだろう、「大きな変化なし、経過観察続行…」と主治医の先生から言い渡され、どっと疲れが出た。
街はクリスマスイルミネーションに輝いていた。近くにあるアップルストアは赤いTシャツを着た店員さんが忙しく接客していた。
は~。
ありがとうございます。
ACIMから得たい“成果”
こんなに恐れが強い私がいま恐れていることは、私は「ちゃんと」死ねるのかな、ということ。
「肉体の死」。
これに失敗した人は未だかつて一人もいない。
これは「起こるか、起こらないか」ではない、「いつ・どのように」起こるか、というテーマだ。
今朝のワークでは、小林麻央さんを思い出していた。
彼女のブログをずっと読んでいたが、逝かれた日の前々日までブログを更新しておられ、最後の記事はオレンジジュースの「最高な美味しさ!」について綴られ、おわりは、
「皆様にも、今日笑顔になれることが
ありますように。」
と締められていた。
あっぱれ、だと思う。
そして先日旅立たれた色えんぴつ画講座の仲間も、泣き言等一切言わずいら立つわけでも頑張るわけでもなく、治療をしながら劇団でお芝居をされ絵を描き、旅をし「その日」まで淡々とできることを重ねておられた(ように見えた)。そこに彼女の“美学”を感じた。