2019-12-17
「最後の審判」…ACIMによる伝統的キリスト教概念の再解釈
「最後の審判」も時おりACIMで見かける、伝統的なキリスト教概念のイエスによる再解釈だという。
キリスト教においてはご存知のように「神から神の子に対して下される最終的な審判と罰」という意味合いだ。丁寧に「救われる者もいれば地獄に落ちる者もいる」とワプニック先生補足あり。
一方、ACIMにおける再解釈は、神の子が幻想から目覚めて真理を選ぶことで原初の誤りを正すことを意味する。
「『最後の審判』は一般に神によって実行される措置だと考えられている。実際には、それは私からの助けを得て、私の兄弟たちによって実行される。(Ⅷ.3:1-2)」
「処罰が当然の報いだとあなたがどれほど考えたとしても、『最後の審判』とは処罰を割り当てることではなく、むしろ最後の癒しである。(Ⅷ.3:3)」
すなわち、ACIMの「最後の審判」は「誰が審判の主体か」「審判とは何か」という2つの点で一般的な意味合いとはまったく異なるものだ。主体は、神の子であるこの世にいる私たちで、それは言わば究極の癒しなのだ。
「最後の審判」に恐れを感じる理由
それでも、私たちは「最後の審判」と聞くと恐れを感じる。
その理由は、主にそれが罪悪感が神に投影され審判が神からの罰と認識されてきたためだが、それ以外に「『最後』という言葉が死を連想させるからでもある(Ⅷ.5:1)」とある。しかし、怯えることなく客観的に考えれば、死というより、死の概念を終わらせ時間の枠の外に出ることであり「それが本当は生命への扉であることは、きわめて明らかである。(Ⅷ.5:3)」とある。
「時間の目的はただ一つ、この審判を達成するために『あなたに猶予を与えること』だけである。(Ⅷ.5:8)」
ここでワプニック先生は、贖罪における私たちの唯一の役割をくりかえしておられる。つまり「分離が決して起こっていないと受け入れることです」。
分離が起こって離れちゃってると勘違いしている自分の部分への、本当のことを知っている部分(愛)からの呼びかけ…「いやいや、今もいっしょにいるよ。気づいて。だから幸せだよ」ということらしい。
他者を助ける際に完璧である必要はない
第2章を終える前に2つ触れておくべきテーマがあるという。
その一つは「他者を助ける際に完璧である必要はない」ということ。
「準備が整った状態とは、達成のための必要条件にすぎない。(Ⅶ.7:2)」一方で「完全に熟達するまでは、自信が十分に養われることはない。(Ⅶ.7:6)」
「準備が整った状態」と「熟達」には当然差がある。すなわち他者に手を差し伸べる際に「熟達」まで待つ必要はない。
また、そもそも時間と空間の枠内の生物である私たちが、時空の外にある心の準備について正しく評価すること自体できないとし、テキスト後半の「あなたには進歩と後退の区別もつかないのだから、自分でその計画の責任者になろうとしてはならない。あなたは自分の最も大きな進歩のいくつかを失敗だと判断したことがあるし、最も深刻な後退のいくつかを、成功だと評価したことがある。(T-18.V.1:5-6)」を引用なさっている。
救済の祈り
二つ目は、「救済の祈り」と呼ばれた箇所。
「助けが求められている状況において、次のように考えるならば、あなた自身の癒しのため、また他の人々の癒しのために、あなたは多くを行うことができる。
私は、真に助けとなるためだけにここに居る。
私は自分を遣わした聖霊の代理としてここに居る。
何を語り、何を為すべきかを、案ずる必要はない。私を遣わした聖霊が私を導くからである。
聖霊が私と共に行くと知っているので、私はどこであろうと聖霊が望むところに居ることに満足する。
聖霊に癒すことを教えてもらうなら、私は癒されるだろう。(V.18)」
このメッセージはビルに向けてとくべつに語られたもので、それがのちにテキストに組み込まれたという。
ワプニック先生はこの祈りによって、「いま置かれている状況のただひとつの目的は自分自身の癒しなのだという忘れがちなことを思い出させてくれます。」
また「何を言うべきか、あるいは行うべきか尋ねる必要はありません。なぜならわかるでしょうから。」とおっしゃっている。