『Journey through the Text of ACIM』(13)-2章 心の力:原因と結果①

2019-12-13

今月やったところ

さて、気づけば12月も中旬。ワプニック先生のテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の“私の旅”は、2章「分離と贖罪」の後半を巡っている。

章立てでいうと、

2-6 The Power of the Mind:Cause and Effect(心の力:原因と結果)

2-7 Forgiveness(赦し)

2-8 The Last Judgement-The End of Process(最後の審判―プロセスの終着地点)

結局「訳」からは脱すことができなかった。そうじゃないと何書いてあるか掴めなくて。英語でそのまま読み進められるようになるのは、まだ少し先かな。

今はノートの左に原文を、右側に横断翻訳サイトの力を借りながら粗い訳を記入していっている。

この3節のうち紙の本ベースで、2-6が12p、2-7は4p、2-8は2p。なので2-6を2回に分けることにした。

JTTAのまとめ方も定まらず、あらすじなのか要約なのか、、(私の感じ方、理解を通した)ざっくりざっくりまとめ。

2章6節は「心の力を認めよ」「心に責任をもて」が主題

2-6 The Power of the Mind:Cause and Effect(心の力:原因と結果)の前半は、とくに「心の力」にフォーカスしている。タイトル通り、私たちの心がもつ力の強さについて、視点を変えながら表現を変えながら、くりかえし述べられている。

私たちは「自らの行動には責任を持たなくてはならない」という共通認識をもつ一方で、「考えに責任をもつ」ということは見落としがちだ。しかし、自分の考えに責任をもつことこそ非常に重要なことだ、とイエスとワプニック先生。

考えはどこからともなくやってくるのではない。何を考えるかは私たちの責任なのだ。

その大前提として、私たち自身が意志決定主体である「心」を持っているのだとしっかり受け止めることだという。

真実を言えば、あなたは自分の考えることにこそ責任がある。なぜなら、あなたが選択権を行使できるのはこのレベルにおいてのみだからである。あなたの行うことは、あなたの考えることから生じる。(Ⅵ.2:6-7)」

私たちが「問題」だと思うものは「肉体(この世)」レベルにあるように見えるが、じっさいには「心(エゴを選んだ心の決定)」にある(肉体の各器官は心で決定された想念を実行しているだけ)。

最初に心が聖霊ではなくエゴ(今回は「自我」ではなく「エゴ」と訳した)の考えに耳を傾けたことが、そもそもの間違いの始まり。そして今なおその間違いを繰り返している。だからこそ、今ここで私たちの心がイエス(聖霊)を選び直すことが重要なのだ。

イエスに助けを求めることは、心に戻ること。エゴの救済は「外」に助けを見出そうとすること。この2つを混同しないこと。エゴをイエスに明け渡せば、私たちの行動は愛と智恵に基づくものとなる。

再度確認しておくべきことは、やはり責任主体は私たちだということだ。そもそも間違ったのは私たち。ならばそれを訂正できるのも私たち。ここを認識できて初めてイエスは私たちに手を差し伸べることができるのだという。

「心を変えなさい」はまずヘレンとビルに向けられた

あなたは、自分の行動ではなく心を変えなければならない。そしてそれは、まさに意欲の問題である。あなたは、心のレベル以外では導きを必要としない。(Ⅵ.3:1-5)」

この文言は、もともとイエスの口述筆記を行ったヘレンとビルに向けて述べられたもので、イエスの教えに対する態度を変えさせるためのアドバイスだったという。

心と行動は、原因と結果。原因は心にあるのだから、心を変える必要がある。

学習者には同様の内容を指す「世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。(T-21.in.1:7)」というフレーズのほうがなじみがあるが、心の重要性についてすでにテキストの第2章で明示されている旨をワプニック先生は強調されていた。

もちろん、この世レベル、肉体レベルの問題で、行動面をコントロールすることも役に立つ。しかし、それは当座の問題解決法であり心そのものを癒すものではない。究極のところ心を変えなければ、たんに問題のすり替えを行っているに過ぎない。

イエスや聖霊に耳を傾けることは、この世での願い事や問題解決を願うこととは異なる。

そもそもの原因である心にある恐怖、罪悪感を取りのぞくことが大事で、まずは、その必要性に気づくことだ。

これは、私たち自身にゆだねられている「心の意思決定の力」を認めることだとも言える。

要するに、ワプニック先生が2章6節で繰り返しおっしゃっていることは、「私たちはすごい心の力を持っていて、それを用いてある決定をしたが、それは間違ってた。今、間違えに気づいて直そうと心を変えれば、訂正できるよ!」ということなのだ。

「病とは何らかの外的探求」

病とは、何らかの外的探求である。健康とは内なる平和である。それにより、あなたは外からの愛の欠如によっても動揺せずにいられるようになり、また、奇跡を受け入れることを通して、他者の中の愛の欠如から生じる状況をも正す能力をもち続けられるようになる。」(Ⅰ.5:10-12)

このあと留意点が挙げられていた。ひとつは、この世(幻想世界)と肉体、そのレベルでの方法論だけにフォーカスするならば、まんまとエゴの戦略に陥ってしまうだろう、と。他方で、エゴの戦略において病気や不正、この世の問題が果たしている防衛的役割を無視するならば、これもまたエゴの深みにはまりこむこととなる、と。

すなわち、私たちはこの世での経験を尊重しつつも(否定してしまわない)その幻想性を認め、心の力へ意識を向かわせて統合していくというダイナミズムが求められているそうだ。

やはり重要なのは、正しい心のあり方に戻ることで、私たちがそこに戻ることができれば、あらゆる攻撃(愛の欠如の表現)から守られる。

心と肉体、考えと行動。このレベルを区別できていることが前提重要要件で、そのうえで決断の前にはイエス(聖霊)に尋ねることだ。

葛藤についての考察

恐れとは常に、あなたが望むことと行うことが葛藤するときに生じる緊張のしるしである。この状況は二つの形で生じる。(Ⅳ.5:1-2)」から始まる文言とその解説では、「葛藤」にフォーカスしている。

葛藤の一つ目のかたちは、「矛盾した複数の事柄を同時あるいは順に行うという選択ができるという場合(Ⅳ.5:2)」つまり相互排他的な二つのことを行うことだが、これには無意識に抵抗が伴い、必然的に自滅的行動へと向かうのだという。

二つ目は、「自分がそうすべきだと思い行動はするが、完全にそうしたいとは思わずに行うという場合(Ⅳ.5:4)」。つまり「~すべき・すべきではない」という考えと「~したい・したくない」という心がちぐはぐな場合で、これはより直接的な葛藤を生むという。例として「特別な愛の関係」が挙げられている。

この関係においては、私たちが他の人に向ける愛情的なふるまいが、実はその特別な人が、自分の特別な要求を満たすために何をしてくれるのかを(無意識に)見込んだ依存状態にあり、その依存に内在する恨みにも似た感情があるとされる。この世での「愛」には、その関係性へと駆り立たせた必要性を隠す役割があるという。う~ん、むずかしいな、認めづらい(これは私の感想)。

葛藤は、外的なことが要因なのではない。心の中にある。

心で未解決なまま、心と行動が不調和ならば、そこには強要された感が残り、それは否認されて内在された怒りとなり、次の投影へと向かうという。悪循環だ。

心が統一されたゴールを受け入れることによってのみ訂正できる。(Ⅳ.6:9)」ここに解決策がある。

私たちは、正しい心で選択する力を鍛えなければならない。それが赦しのレッスンの実践だ。実践を重ねれば自然とイエスの見方、考え方に沿うようになる。

この世での葛藤、問題はすべて内なる葛藤の投影である。その訂正ステップは、次のように要約される、とある。

これは、恐れだとまず知りなさい。

恐れは愛の欠如から生じる。

愛の欠如の唯一の治療法は完全なる愛だけである。

完全なる愛とはすなわち贖罪である。(Ⅳ.7:5-8)」

葛藤の由来は愛を拒絶した決断に由来するという。「自分はどういうわけか愛さないことを選んだに違いない、そうでなければ、恐れが生じることはあり得なかった、と自分に言いなさい。(Ⅳ.7:2)」

かつて、愛と恐怖で、恐怖を選んだことから葛藤が生じているはずだから、愛を選び直すこと。そうすれば愛が残る。それが贖罪のプロセスだという。

心&考えることを過小評価しないーヘレンさんを例に

いずれにしても心がもつ力を過小評価しないことだ。「考えること」の重みを再認識すべし。

と、ここでヘレンさんの実例が挙げられている。ヘレンは行動レベルではパーフェクトだった。しかし、内側の考えは違っていたという。

ひとつには常に体重のことを気にかけていて、ダイエットとリバウンドを繰り返していた。そして常にカロリー計算をしていた。

ヘレンは、脂肪を摂りさえしなければ、脂肪のことをずっと考えていてもOKだと思っていた。

しかし、その心には自己嫌悪(=罪悪感)のテーマがあったという。

二つめは、他のだれかと一緒にいるとき。ふるまいは完璧に親切だったが、内心はその人といることを嫌っているか、そうでないときでも常に相手をジャッジする気満々だったとある。

イエスは「思っているだけならOK」という考えはうまくいかないと言う。罪悪感は行動からではなく思った時点で生じているから。

また「思っているだけならOK」という考えは、心の力を無なものと軽んじている。それは高い代償を伴うものだと説明されている。

それは、私たちが、この夢から覚めるには、心のもつ力を認めその選択力を持ってもう一度選択し直すことが必要だが、そのチャンスを棒に振っているから。

心に力などないと思わせるのは、実はエゴのたくらみなのだ。心の力に対するエゴの脅威が、心そのものを遠ざけるよう仕向けているのだ。

テキストにも記されているとおり「無為な想念というものはない。すべての想念は何らかのレベルで形を生み出す。(Ⅳ.9:13-14)」

その想念が罪悪感ならそれが投影される。

このテーマはくりかえし出てくる。すぐに見方が変えられなくとも、今は「私たちが自らの責任においてリスクを背負いつつ、心を無力なものとして追放しているのだと覚えておくことが役に立ちます」とワプニック先生。

これは、否認・抑圧であり、それは投影され他者への攻撃につながる。そしてそれが無限ループで…というホラーなおはなし。

ちょっとした感想

ずいぶん端折りながら書いたのだけど、ひぇ~、こんなに長くなってしまった。

しかも、まだ2-6 The Power of the Mind:Cause and Effect(心の力:原因と結果)前半だし。。

ワプニック先生がシンフォニーとおっしゃるとおり、JTTAはテーマ構成にしたがって様々な素材を微妙にトーンも変えながら織りなして美しく響かせているように表現されている。

これを稚拙にまとめてしまうと、その繊細さやリズムみたいなものが損なわれて、つまらんことになってしまっているかも!?

「葛藤」のテーマは日常生活でもよくあることだ。葛藤を掘り下げると、詰まるところ愛か、恐れかで悩んでいるとは…。恐れに端を発した選択が結果的にうまくいかないのは理屈でもわかる。でも愛を選ぶって、、どういうことだろう。素晴らしいと思うが、実際私はこれまで恐れ(&罪悪感)から動いていることがほとんどだったような気がする。人目を気にするとか、力を持った人におもねるとか。

「心で考えることを過小評価しないこと」のヘレンさんの例はわかりやすかった。

この世の愛が依存関係に基づく怒りや恨みを内在しやすいことも、渦中にいるときはわからないけど、一歩引いて思い浮かべればわかる。

この世のことを否定はしないが、巻き込まれない。赦しと愛の対象として扱う、という感覚がよくまだつかめていない。私はエゴの観点からの否定をしていて、赦しの機会さえも近づけない構えかもしれない、と自分を顧みた。

ワプニック解説本は、都合のいい自分なりの解釈にも光を当ててくれるので、今度“道草”をし続けることは難しくなるかもしれない。今回、パソコン上の電子本が開けなくなるというハプニングがあったが(今は別の方法で見られるようにした)、これからもさまざまな「抵抗」をゲンジツ化しちゃうかもだな。

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