『Journey through the Text of ACIM』(12)-2章 防衛

2019-11-07

イエスによる防衛機制の再解釈と、間違った心からの防衛

イエスは、ACIMを口述するにあたりヘレンとビルがよく知っている心理学の理論と用語に独自の意味づけをして用いた。

なかでも最重要概念のひとつが、フロイトが提唱した防衛機制である。イエスは防衛を自我の間違った心と聖霊による正しい心、それぞれの視点から説明している。

自我の間違った心からの防衛について

分離以来、防衛はほとんどすべて、贖罪に対して防衛を固めるために用いられ、それにより分離が維持されてきた。これは概して、肉体を保護する必要と見なされている。心が思い描く肉体にまつわる数多の空想は、『贖罪』を達成する手段として肉体を使用できるという歪曲された信念から生じている」(T-2.Ⅲ.1:2-4)

私たちに贖罪を選ばせないために自我が行うすべてのことは「防衛」である。

自我は自らの存在が、神の子の意志決定に依拠しているのを知っている。神の子が存在を信じるからこそ自我は在る。したがって神の子が心変わりしてしまうことが自我にとって最大の脅威である。

この脅威から身を守るために自我は防衛を繰り出す。

神の子はこの世で自らを肉体だと見なし、心ではなく脳によって支配されていると思っている。自我による防衛戦略の目的は、神の子をこの「心ない状態(mindless)」に留めておくことである。

そのため自我は神の子に「心は危険な場所だ」と確信させて心に近づかないようにさせる。

その防衛線の第一は、「罪、罪悪感、恐怖」という邪の三位一体だ。私たちは神に背くという罪を犯した、神は憤怒している。心に近づけば、罪悪感と恐怖に身もだえするぞというお決まりの脅しで心から遠ざける。

防衛線の第二は、肉体である。私たちの関心を肉体にそらすことで心が「贖罪」に向かわないようにする。

フロイトは防衛という心のはたらきを解明したうえで「投影」の概念を提唱したが、こうしたフロイトの業績あってこそ、私たちはACIMを手にすることができたのだとワプニック先生はフロイトの功績を説明なさっている。

正しい心の否定の用い方

自我が罪、罪悪感、恐怖からの防衛が必要だというのに対し、聖霊は「何も起こっていない」と理解させて私たちを夢から目覚めさせようとする。

その「否定」の使い方は、自我がいう「分離」を否定すること。贖罪の原理は、分離に伴ってその訂正として生じたものである。

自我が用いる防衛は、両刃の剣である。それは一時的にはうまくいくように見えても「防衛すべき問題がある」という認識に依拠しているため、結果的にはその認識と問題を強化してしまう。

つまり自我は、分離、罪、罪悪感をリアルにしたうえでそこから守る。だがその守りは、結果的に分離の信念を強化する。

一方聖霊の贖罪は、真実の否定を否定する。これが真の否定である。

真の否定は強力な保護手段である。あなたは、誤りが自分を傷つけ得るといういかなる信念も否定することができるし、否定しなければならない。この種の否定は隠蔽ではなく、訂正である」(T-2.Ⅱ.2:1-3)

真の否定は、再び選び直す心の力に基づく。

自我の縛りから解放されると、心は神の愛と創造の延長としての自身を思い出すことができる。

それは何のためのものか

私たちが神の子としてのアイデンティティーを思い出すために、あらゆる状況において自問すべきは、「それは何のためのものかー、神か自我か、愛か恐れか、真実か誤りか」ということである。

聖霊の目的は、自我が行った誤使用を訂正することである。

奇跡とは常にこうした誤りの否定であり、真理の肯定である。正しい心の状態のみが、真に効果のある形で訂正を行いうる」(T-2.Ⅴ.14:1-2)

奇跡とは、分離に対する信念を取り消すプロセスである。

私たちが赦しの実践を行うにしたがって、真理は私たちの毎日の生活に反映されていく。

 

以上、2章の防衛の節のざっくりまとめ。

2章(分離と贖罪)は、分離というそもそもの間違いの始まりからのお話だから、1章(奇跡の意味)より、わかりやすい気がする。「防衛」も思い当たること大ありだけど、自分が当事者として渦中にいるときには、わからなくなるから不思議。

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