2019-11-05
和訳から脱した!?-ようやく2章へ
テキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』の“私の旅”は、ようやく2章に入った。
振り返れば1章(紙の本で1巻のp21~p42)を読むのに丸4ヶ月かかった。22p/4ヶ月だから1ヶ月5.5pだ。ふぅ。
こんなに時間がかかる理由は、英語で書かれた文章を英語のまんま理解することができず、時間をかけて解読して和訳してしまっているからだった。しかも本書はワプニック先生が講義なさったものを書き起こしており修飾が多い話しことば。それを稚拙ながら日本文として通るようにするという作業にえらい時間をかけてしまっていた。
電話帳サイズの本が4巻まであるJTTAの旅、この調子では何年かかることか…と、今月からは和訳はやめて、英語でそのまま読む方法で進めることに決めた。
やり方は未だ固まっていないが、とりあえず今月からは「紙のノート」を作ることにした。
左側に電子版から原文をコピーし、右側にポイントや読後メモを書こうというのだ。
しかーし、最初はポイントだけ書いていたはずが、後半にいくと気づけば、あ゛、日本語びっしり、訳しちゃっている…(^д^;)
せっかく意味がわかったらメモしたくなるんだねぇ。
それでもGoogle翻訳頼みの自分さえ何となくわかればいいや、くらいの粗さなので、何とか2章の半分まで進んだ。ふぅ。
「英語脳」を育てる道は遠い。。。と思い知る。
しかも、私はどうも、日本語にすることと、本の内容を味わうことが同時にできないらしくて、えらい時間をかけて読んだはずなのにその読後感が希薄。
さて、何書いてあったっけ、と最初の部分を見ると、ちょこっとしかメモ書きしていないところは、すでにわからなくなっている。再び読むのにはまたまた時間がかかってしまって…
は~、真の力をつけて、見てさらさら意味がわかるようになりたい。今はざるで水をすくっているみたいだ。
10月に読んだところは、2章の前半部分
さて、2章9節のうち今月は、次の6節を読んだ(実際には番号は付いていない。わかりやすくするために付けた)。
2-0 Introduction(序論)
2-1 Oneness(一体性)
2-2 The”Tiny,Mad Idea”(小さな狂った考え)
2-3 Fear of the Atonement(贖罪に対する恐れ)
2-4 Defense(防衛)
2-5 The World and Body(世界と肉体)
2章 Introduction(序文)の概要
このうちのIntroductionの概要メモを(自分用のメモに過ぎず、勘違い等あったらすみません)。
第2章は、ACIMの思考システムを概観している章だという。
つまり、天国、自我(エゴ)の思考システムの発達とその誤り、肉体という誤創造、肉体を治癒するため魔術的方法を用いる際に犯しがちなこと、誤りを認めて奇跡を選ぶこと、神なるわが家に戻ること…等について記述されているという。
この章に特徴的なのは、心が持つ力を強調した上でその力を軽視しないことが重要だと初めて述べている点だ。これは、今後本書を通して繰り返し述べられることになる。
まず、天国の”はたらき(activity)”。それは拡張(創造ともいう)だ。これは神が自らを延長するというまさに愛の性質であり、神自身を延長したものが神の創造物でありキリストである。そしてキリストは神と同じ創造性を持ち自らも延長する。
これが、私たちが離れたと思い込んでいるが今なお在る天国であり、ACIMは全編を通して天国の「愛の延長」というテーマを語っている。
天国の性質とは、完璧な一体性(ワンネス)であり、そこでは神とキリストは原因と結果であるとともにひとつである。
こうしたことは二元論的な言葉で説明するしかない。しかしどんなに言葉を尽くしても、今この世にいる私たちには理解できないのだという。
ACIMには「投影」と「拡張」という言葉が独特の使い方で用いられているが、投影はエゴの働きに限定され、拡張は神(それと聖霊)のはたらきのために用いられている。
自我の思考システムのなりたちとその思考回路
この2章の序文には自我(エゴ)の思考システムのなりたちがコンパクトながらまとまった文章で記載されている。ACIM学習者にはおなじみのお話だ。
それは、「小さな狂った考え」から始まった。「神から離れてしまった」という誤解だ。完璧なる一体性からの分離-そこから「自分には常に何かが欠けている」という感覚が生まれる。この欠乏感に対して、これを「埋めなければ」という想念が生じ、これが自我の思考システム、偽りの自己、物理的な宇宙などを生じさせるきっかけとなった。
本当は分離など起こってはいない。しかし、それが起こったように思ったとき、自我の声と聖霊の声の両方を持つ“分離した心(神の子)”が生まれた。聖霊は防衛することを知らず自我には反応しない。
分離した神の子は、聖霊のノーリアクションを好まず、自我を選び“夢”を始める。自我は、今に神の子が心変わりするのではないかと脅威を抱き、これに対して防衛が必要だと考える。それがつまり、罪、罪悪感、恐れという“迷信”で縛ることだ。
「神から離れてしまったなんて、ひどい罪を犯したものだ。怒り狂った神は罰として今にお前を滅ぼしに来る!」と脅す。
「でもー」と自我がささやく。「心から離れ、世界を作って隠れれば神の怒りから逃げおおせるぞ。」
この誘いを真に受けた分離した心は、自らを投影した「この世」という世界を生み出し、自身を心ではなく「肉体」として体験することになる。
肉体は、自我が支配する原理・想念と同じ原理・想念で支配されているため、結果的には、心の中にあった問題は投影され「この世」と「肉体」で直面することになる。
自我の戦略の集大成は、私たちの本質が心だという記憶も、世界や肉体がどうやって生じたかという記憶もない「心のない世界(a perpetual state of mindlessness) 」に私たちを閉じ込めておくことなのだ。
真に癒すのは、赦しと奇跡
何かが欠けていて足りないという個人レベルの思い込みは、肉体面と心理面に投影される。私たちは心理面での欠乏感を肉体を通して自らの特別性を満足させることで埋めようと図る。
こうした実際には存在しない「問題」に対して、この世の解決策を講じることは「魔術」である。「魔術」は一時的にはよい効果をもたらすように見えるが、永続的に私たちを満たすものではない。問題はその原因の真の在りかで対処しなくては解決しない。
本質的な解決策には、赦しと奇跡が必要だ。「赦し」は、鍵がかかっているドアを開く鍵で、その向こうには問題とその答えがある心がある。「奇跡」は、問題はこの世や肉体にあるのではないと認め、心に戻るプロセスをさすACIM独自の言葉だ。
この章では、「体をどう扱うべきか。また癒すにはどうしたらいいか」といったテーマと学習者が陥りがちな傾向についても議論される。
ざ~っくり、2章序文に書いてあった内容をまとめた。
ここだけでもACIMの中心概念が含まれていると思う。重要だと思う部分を書き出そうとするとかなりのボリュームになってしまう―。