2019-10-03
ようやく1章「奇跡の意味」おわった…
最後に『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』についてブログに書いてから、気づけば早一か月だ。
もう10月。早い。
本書は『A Couese in Miracle(ACIM)』のテキストの解説本だから、本来はこの解説を基にACIMテキストを読むべきものだけど、テキストを読むどころかやはりJTTAの“英語問題”だけでいっぱいいっぱい。シェアの会間際になって慌てて、そういえば内容何だっけ?…と、和訳したものを読み返すいういつものパターン。。。なんか本末転倒。
今回読んだのは次の3節。
1-6 Jesus(イエス)
1-7 Our Fear of God(神に対する恐れ)
1-8 Oneness(一体性)
そのうち、今日は「1-6 Jesus(イエス)」について、印象に残ったところをー
『奇跡講座』の著者イエスには意識を向けてこなかった私
Jesus(イエス)の節はとくに難しく感じた。
というのは、私はイエスになじみがないから!(「イエス」と“呼び捨て”でいいのか、とりあえず敬称略で)
私は、2012年にたまたま図書館で借りた『神の使者』を読んで、「こりゃ何じゃあ!? お~、そうだったのか!それならいろんなことが腑に落ちる」とアーテンとパーサが教える内容に惹かれた。その『神の使者』のなかで勧めれていたから『奇跡講座』のワークブックがやりたくなった。
…そこまでなんだよなぁ。
だから『奇跡講座』の著者がだれか、という大事なことは、私のなかですこーんと飛んじゃっている。
イエスの名はもちろん知っているけれど、そこまで。あえてイメージを言うならば、映画「パッション」内で衝撃的だった怖ろしい印象がかすかに残っているくらい。
このブログの中でも「イエスは言う」といった表現は自分になじまず、「奇跡講座はこう言う」とぼやかした言い方しかできていない。どう接点を持ってよいかわからなかったのだ。
さて、この部分は訳も自信ない箇所が多い。他の部分はワプニック先生がおっしゃいそうなことは何となくわかってきたから、こうかな、と訳してきたが、Jesusの節はそうした“予測”もできなかった。
そういえば、私の意識から落ちているのは、イエスだけではなく口述筆記されたヘレンさん、ビルさんもだ。正直あまり意識を向けてこなかったのだ。
イエスは最初ヘレンの許容度に合わせて口述した
p37「 ヘレンはカトリックの信徒ではありませんでしたが、ミサに行くのは好きでカトリック教義は知っていました。そして教会のシンボルには惹かれるものがあったのですが、教会自体は避けていました。さらに、彼女は学者たちがイエスや福音についてどのように書いているかについてはまったく知りませんでした。」なのだそう…
そして、p37「 イエスは、前述したようにとくに最初の段階においては、ヘレンの経験と信念に照らし合わせて奇跡について話しました。つまり、『奇跡とは(あなたが)行うことだ』と言いました。繰り返しますが、彼の教えの本質は、奇跡は自らの力でなすのではなくイエスと一緒に『行われるべき』であるとしたことです。」とある。
たしかに第1章の最初のほうでも、テキストから
(Ⅰ.5:1-2)奇跡とは習慣であり、意図せずに起こるべきものである。意識的な制御下に置かれるべきものではない。
(Ⅰ.8)奇跡とは癒しである。それは奇跡が欠乏を補うからである。奇跡は一時的に多くもつ者により、一時的に少なくもつ者のために為される。
(Ⅰ.10)信じさせるために奇跡を見世物として使うことは、奇跡の目的を誤解している。
などを引用して、奇跡が何らかの行動であると思わせるような記述があったが、これらはみな口述を始めた初期の段階でのヘレンの許容度に合わせたものだということだった。ここで再び以下のような説明がある。
p37「 これらの初めの部分のイエスにまつわる記述は、A Course in Miraclesのイエスがまるで福音書のイエスだと暗示しているようです。しかし、実際はそうではありません。イエスはヘレンが彼を理解できる唯一の方法で話していました。そうしたかたちが理にかなっていたというわけではなく、彼女が受け入れることができるイエス像だったからです。
聖書から非常に多くの引用がある理由は、一つにはヘレンが聖書を熟知していたからです。繰り返しますが、彼女は聖書が好きではありませんでした。ですが、聖書をよく知っておりそこに書かれた言葉は愛していたのです。 」
p37「念押しになりますが、イエスが実際にこのような言葉を言ったという意味合いで捉えてはいけません。これは単にヘレンがイエスが言ったと信じたことなのです。」
イエスは自らを、「特別な存在」ではなく「兄」として見るように言った
ACIMテキストの内容については(p37)「奇跡の原理では、イエスは基本的に私たちがまず彼に求めるまで何もしないようにと私たちに告げています。」とある。
ざっくばらんに言うと、「これまで散々自我と一緒になって変なことになってきたんだから、それ、もうやめなよ。ボクは先に進んでいるからいい方法を教えてあげられるよ。だからYouたち、僕の言うとおりにしなよ。」と言っている。いわば頼れるアニキなのだ。
(II.3:10-13)私に身についていることで、あなたに達成できないことは何もない。私がもっているもので、神から生じていないものは何もない。今の私とあなたとの違いは、私にはそれ以外は何もないという点である。このことが、あなたにおいてはいまだ可能性でしかない状態に、わたしを置いている。
この文言、とくに「今の私とあなたとの違いは、私にはそれ以外は何もない」というところが何というか、強い。究極の他力だ。
またこの節で重要だと思うのは、p38「イエスは、彼が神の一人子であるというキリスト教の最上位原理を訂正しています。彼はここではっきりと自分が神の一人子なのではなく、われら皆が神の一人子なのだと言っています。」と、キリスト教におけるイエス像をACIMの中できっちり訂正していると解説しているところ。
p38「彼を私たちとは異なるものとして、あるいは線形的または歴史的な観点から見ることは無意味であり役に立ちません。時間がリアルでないなら、二千年前に生きたイエスを崇拝することは愚かでありえないことと言えるでしょう。それは単なる偶像崇拝に過ぎないので、長い目で見れば私たちの助けにはなりません。私たちが繋がりたいイエスは、私たちの心の中に想念として生きる人であり、自我と対極にある思考システムの象徴なのです。」とも説明される。
戒めるべきことは、イエスを特別な人として偶像化して祭り上げてしまうことだ。それはACIMが教えることとは真逆だ。
そうした過ちを避けるためにも、ACIMにはイエスの個人的、具体的な情報は書き留められていないのだという。
p38「『私を選びなさい。そうすればあなたは贖罪を選んでいるのであり、それは神の愛を思い出すことを選んだに等しい。私の代わりに自我を選ぶなら、あなたは神を殺し、彼の息子を十字架につけ、憎みや痛みや死を自分の神として選んでいるのである。』とイエスは私たちに言います。それゆえ、私たちがこれまで読んだり聞いたりしたことに基づくイエスの先入観をすべて脇におくことが極めて重要なのです。」
イエスを自我の思考システムの訂正と贖罪の原理の象徴とする
イエスをイエス個人として認識するのではなく、自我の思考システムの訂正と「神からの分離は決して起こっていない」という贖罪の原理の象徴とすることが、最も重要だという。
p39「 イエスが表している贖罪は、人類(ホモ・サピエンス)だけのものではありません。想念における『神の子』は人間というかたちとは限りません。むしろ、人類は、分離の思考形態における多様な表現の1つにすぎません。」
p39「テキストを読み進めていくと、彼は、私たちが苦しんでいる―恐れ、心配し、落ち込んでいる―ときに寄る辺となる唯一の存在だという記述を何度も目にするでしょう。」
p39「奇跡とは、問題の性質とその解決策について私たちが心を変えるプロセスに付した名前です。」
p39「この象徴(イエス)を象徴を超えていく道筋の象徴として使うのです。」
キリスト教のイエスと、ACIMのイエスの意義の違いをしっかり抑えて次章以降に進むことがこの節の根幹だった。
まとめるというまでに至らず気になるところを抜き出しながら書いていたら、またまた長文になってしまった。
ヘレンさんの口述過程に遅ればせながら、関心が高まってきた。