2019-10-02
9月に見た夢
「今日は静けさと平安の日である。」(レッスン290)
9月15~18日にかけてゆるゆるやっていたワーク。しかも第二部に入ってから、さほど主題概念に意識を向けないでいる。
その頃のノートを開いてみたけど、たいしてメモもしてなかった。
代わりに18日朝、長々と見た夢のメモがしてあった。
<夢1>
私が何か講義することになっていて、会場にはすでに大勢の人が待っている。私が書いたものではないが、びっしり書かれたレジュメもすでにある。経営とかそういう分野についてらしい。
ど、どうしよう。何を教えるの?レジュメも見てないし。
ざっとどこかでレジュメに目を通して最初に問題でも出して時間かせぎしながら何とかしようかとレストランみたいなところに入って準備していた。レストラン出たら、すぐそばのはずだった会場が遠くなっていて電車に乗ったりしながら、戻っている。
場所もわからないけど、ともかく戻ろう。遅れてしまうけど、それでも行くしかない、と焦っている。
へ~、そんな夢を見てたのか。数年前まで仕事の一環として、経営分野の講師をやっていたからそういうのに関連したことか。
<夢2>
そういえば、数日前は、私が何かの講座に生徒として参加することになっていて、その前にトイレに行かなきゃ、とトイレを探すがなかなか見つからないという夢を見ていた。
やっと、あった~と思って入るが、そのトイレの壁の一面が道路に面していてカーテンのみ!それでも仕方ないか、と用を足そうとしたが、外にいた男性達にからかわれ半べそかいて出てきた…その後学校の案内所みたいなところを見つけて聞くが…(中略)…わからず、同じ講座に出る予定の方がいたので、「すみません、私気分が悪くなったので出られません。」と伝える。これは夢なんだから、と思い気が楽になる。
そんな夢を見たことを、思い出した。
教える方と、教わる方と立場は違うけど、「講座もの」の夢を見てたんだな。その両方、すんなり出られず“障害”があって焦っている。2つめの夢では最後には諦めてる。
どんな意味かな?ユング講座で聞いてみたいけど、聞けるか??
レッスン291-静けさと平安の日
ワークのこと。
「キリストの 視覚はあらゆるものが赦されて安らいでいるのを私に見せ、同じ心眼を世界に差し出す。
私はこの心眼を、その名において、それを自分と世界の両方に受け入れる。
私たちは今日、何と麗しいものを見ることだろう!」(W-pⅡ.291.1:2-4)
こんな心もちになれたらいいなぁ。
冷え込んでくるまでの、心ゆらぐこの季節こんなふうに見える瞬間があるといいなぁ。
「今日、キリストの心眼が、私を通して見ている。」(W-pⅡ.291.1:1)
私の姿勢しだいなのだなぁ。私は、私のじゃまをしないでいたい。