『Journey through the Text of ACIM』⑤-第1章(p30~35あたり)

2019-08-31

奇跡としての想念

ワプニック先生の『Journey through the Text of A Course in Miracle』の8月分の備忘録。

今回私が読んだのは、

1-3 Miracle As thoughts(想念としての奇跡)(前回の残り)

1-4 Time(時間)

できれば読んだ感想をまとめたいところなのだけど、読むのに精いっぱいで、、、気になったところを書き出しておこうと思う。

 

p30「このコースの核心は、私たちは心が持つ力を忘れてはいないということです。私たちがその力をたいそう恐れているのは、もし私たちが心の中を覗き込んだら、身がすくむような罪が突きつけられてしまう、そして罪の後ろには、私たちを絶滅させようと誓っている復讐心に燃えた狂暴な神が立ちはだかっている。そう自我(エゴ)が告げているからです。」(訳はたいだいこんな感じというもの、間違っていたらすみません)

私たちは自分の罪と神からの復讐があまりにも恐ろしいので心の中をちゃんと見ることができない。だからそれがただの思い込みに過ぎないと気づくことも正すこともできず、逆にそれに力を与えてしまっている。その結果が、この世とここにいる個々の私たちだ。

p30「『私は神の真実の代わりに自我の嘘を選び、神の真の愛より自我の特別な愛を選んだ』―詰まるところすべて、このシンプルな考えに要約されます。」

私たちの心が持つ力は非常に強い。だからこそ、全くの幻想、でっちあげを信じることによってリアルにできてしまう。

でも、イエスはその自分の心が持つ潜在力を使うことで、ここから脱することもできる、と言っている。

p30「私たちが持つ心の力は非常に強いので、夢の中であっても幻想が実在していると信じることができます。」

p31「 よいニュースは、心が持つ力がこの世という地獄から脱出する唯一の手段になるということです。」

そしてワプニック先生が引率するこの旅『Journey through the Text of A Course in Miracle』の目的が書かれている。

p31「私たちが始めたこの旅の目的は、私たちが望んでいることは苦痛であって、イエスはそんな私たちに喜びを差し出しているのだと教えることです。しかし私たちはひどく頑固でイエスは様々な方法でメッセージを繰り返さねばなりません。」

そう!確かに「頑固」だ。全く「聞く耳」を持っていない。

「人間」は感情的な生き物で、とにかく「怖いものは怖い」「嫌なものは嫌」。近づきたくない。「その話はしないで!もう、いいから!」とせっかく幸せの秘訣がオープンになっているのに、恐怖から思考停止状態になっている。相当の覚悟がないと近づけない。

p31「彼は私たちに『救済への若者ガイド』を与えたのです。そして私たちはみな、精神的にとても若いのです。彼は同じ奇跡というテーマを何度も繰り返し演奏しています。」

ホントだ。「奇跡講座」は表現が抽象的で「聖霊の場所」から話をしているからうんと難しく感じるけど、とどのつまり同じことしか言ってない。そのひとつが次のことだ。

p31「聖霊を選ばなかったことが病気であり問題なのですから、聖霊を選ぶことが解決であり癒しです。」

本節「1-3 Miracle As thoughts(想念としての奇跡)」の終わりには、 「これは心を訓練するコースである。」から始まる(VII.4-5)が元々は本文のこの部分にはなく 「後からつけ加えられたヘレンとビルに当てたメッセージ 」だったと書かれている。

p31「イエスはヘレンとビルが自分が口述しているものに関心を向けるよう要請していたので、書きとったものを読んで研究することに対する彼らの抵抗感に対して―ちなみにこの抵抗感は私たち皆が共有しているものですが―次のような言葉を向けました。『これは心を訓練するコースである。あらゆる学びは、注意力と何らかのレベルの学習を必要とする。』」

そして、ワプニック先生がストレートに濃く説明なさっていると思うのは、次の箇所。

p31「 イエスは、私たちがこの初めの章の基礎となる部分を受け入れることができて初めて、次章以降に進む準備が整ったといえると続けます。創造主のことを考えるとき私たちは、相応の畏怖の念を抱くよりむしろ、投影された罪悪感によって創造主が私たちの罪を罰するだろうと恐れます。」

「後に続く章は確かに難しい内容です。というのは、そこでは私たちは罪悪感でいっぱいの自我の思考システムの汚水に飛び込むよう求められているからです。さらには特別な関係の殺人を目にすることになり、時にそれは身の毛もよだつほどこと細かく描写されているからです。加えて、私たちが被害者である状態とは実のところ何を意味するのかを暴露しています。それは苦しんでいる私たちが自ら自分につけた仮面なのだと。」

うーむ、書き出しているうちにすごいボリュームになってきた。。。しかし、「罪悪感でいっぱいの自我の思考システムの汚水に飛び込むよう求められている」とは、確かにリアルに怖い。そしてそこで「特別な関係の殺人」があり、加えて「被害者であることは…実は…」と続くこのお話、本当に恐ろしいホラーだ。ただ、その後にはイエスによる「そこから抜け出すには…」があるんだけど。。そこまで到達することがはたしてできるか。。。

だからワプニック先生は、頭で理解しようとしたり「つまみぐい」したりするのではなく、音楽を味わうようにすべてを交響曲として味わってほしい、とおっしゃる。

p31「ベートーヴェンの交響曲第5番の最後の楽章は、輝かしい勝利を表現しています。しかし私たちが最初の3楽章を聴いていなければ何ら意味を持ちません。」

「同様に大多数の人々は、ベートーベンの不朽の作品、第九についても、最後の楽章、シラーの人類愛をうたった詩をテーマとした人々を鼓舞させるような変奏曲の一部しか知りません。しかし、その音楽は私たちがベートーベンの交響曲の旅に入り込んでこそ意味を持つものです。ベートーベンはそれを皆がひとつになることだと考えました。」

ワプニック先生という方は、本当に音楽が好きみたいで、音楽のたとえがたくさん出てくる。

p32「イエスは、たとえ我々の脳が言葉の意味と格闘することになろうとも、作曲家が作品を通して私たちを導くように、私たちが自ら望んでイエスの導きを求めるようにと望んでいます。」

格闘。。。している。。。私も。。。

しかし、テキストの文言はワークブックより数段難しく感じるなぁ。せっかくテキスト解説本を読んでいるのだから、テキストと突き合わせてじっくり考えたらいいんだろうけど、解説本の意味をつかむだけで力尽きている。。

「時間」というもの

「時間」については、「 A Course in Miraclesにおいて最も理解が難しい面のひとつ」(p32)と書かれている。そしてコースの中にも体系だった説明はないらしい。それは「 私たちには時間の概念を理解するうえで必要な資質が乏しいから」(p32)とある。。

それを説明するテキストの内容も挙げてある。「 この世界にいる誰にも理解できないことを、これ以上説明する必要はないだろう。…しかし、そうした言葉が、今でも時間を数え、時間によって起床し、働き、眠りにつく者たちに対し、どれほどの意味を伝えることができるだろうか。」(W-pI.169.10:1,4)」(p32)

「私たちの生活は、時間が線形であるという信念をベースに生成されています。」(p32)とあるが「線形」という言葉も私には難しく感じる。「直線的」ということか。

時間のことを理解するのが難しいのは、時間が「私たちの人生と呼ぶもの、そのものだから」だと思う。赤ちゃんとしてこの世に生を受け、成長し、学校に入り…会社に入り、パートナーを見つけ結婚して子どもを産んで…。

私たちの命が時間というしくみのなかで在るものだから、それをそのしくみから離れて見るということがまったく想像できない。

何とか「神との分離」、その勘違いからくる罪悪感とそれがあまりに大きいがため直視できずよそに投影…、というストーリーを受け入れることができたとしても、「 罪、罪悪感、恐れの考えが世界に投影されたとき、映し出されたかたちの一つが、時間でした。」(p33)というところまでは実感しにくい。観念としてはそうかと思うんだけど。。

ただ「 自我にとって線形的な時間とは、過去に罪を犯し、現在に罪悪感を抱き、未来には来るべき罰を恐れることを意味します。すなわち、罪=過去、罪悪感=現在、恐怖=未来です。」(p33)は確かにそうかな、と思えた。

二週間前お盆帰省していた時、「あったかもしれない別の人生に思いをはせたり(過去の罪?)、腰がさらに曲がった母に(ふだん放っておいてと)申し訳なさを感じたり(現在の罪悪感?)、いつまで元気でいてくれるか不安に感じたり(未来への不安?)、…した。」から。

そういう感情全部を手放すことが赦しなんだろう。

(p33)「 時間と空間の世界は、分離という自我の想念と、罪、罪悪感、恐怖といった想念からの自我の防衛の投影にほかなりません。」

(p33)「時間と空間は心の中には存在しません。だからコースは、聖なる瞬間には時間も空間も、肉体も存在しないと説明しています。(T-18.VII.3:1)」

実際そうなんだろうけど、時間と空間、そして肉体も、、それこそが世界と自分だから、ここじゃないところの話としては聞けるけれど、社会に戻ると「あれは空耳だったかな」ぐらいのもんだ。

ワプニック先生本は、「 この世の問題を一夜で解決することはできません。」(p33)としながらも、「 しかし、個人的な痛み、苦しみ、病いは非時間的な心の中で起きていることですから、これらを解決して癒すのに時間はかからないのです。」(p33)と続け、だからこそ奇跡は時間を節約できるのだと結論づける。

(p33)「問題は私たちが自我を選んだ時に始まりました。そして私たちが聖霊を選べば終わります。」

(p33)「(ひとたび罪悪感をなくせば)すべてが、現在に、そして時間の外にある聖なる瞬間に、焦点が合います。奇跡はすべての問題を癒すので、私たちがどこにいるか、私たちの状況が何であるかは問題にはなりません。自我の手を放して代わりにイエスの手を取ることを選べば、いかなる瞬間においても私たちは平和になれるのです。」

そうなれたらいいな~と思う。「問題」は外から見た目ではすぐに解決できないかもしれない。でも、心のあり方を変えれば「問題」は「問題」でなくなる。いつだって心は平和でいられる。

ホントかな~?「問題」を「問題」と感じないことなんて、果たしてできるんだろうか。今はいちいちパニックになり大騒ぎしてるけど!

(p34)「 A Course in Miraclesでは、長い期間を表現するのに『数千年』という決まり文句が使われています。私たちが自らを『戦場を超えたところ』に引き上げたとき戦いは終わります。解決には延々と続く交渉、条約、駆け引きも必要なければ、敵を爆撃して無き者とする必要もありません。

もちろん、この世の視点から見れば、奇跡には何ら意味はありません。人々は『奇跡がどうして延々と続く中東紛争を解決できるというのか』と疑問を投げかけるかもしれません。しかしこの教えは、私たちが心の中の『戦場を超えたところ』へ行けば意味をなします。そこでは世界が違ったものに見えるからです。」

(p34)「(II.6:8)与える者と受ける者の完全な対等性という、奇跡の根底を成す認識によって、それが為される。」

「これは重要なテーマであり後の章で再び取り上げます。この原則の本質は、我々が愛を与えるならばそれを受け取るし、罪悪感を与えるならそれもまた受け取るということです。私たちは、自分が与えるものが実際にあると信じているからこそそれを与えるのですから、与えたものに実在性を与えているのです。それゆえ自分もそれを受け取らざるを得ません。」
 
この「与えるものを受け取る、なぜなら自分がそれをリアルにしているから」という点もおもしろく感じた。
 
まとまりなく、書き散らかしてしまった。
ここから続いて、さらにワプニック先生本は「贖罪」へと入っていく。

“『Journey through the Text of ACIM』⑤-第1章(p30~35あたり)” への2件のフィードバック

  1. ふうせん より:

    初めまして☺️
    いつも拝見させていただいています。
    今回のブログ、とても勉強になりました。
    私も今ワプニック先生の「Healing the Unhealed Mind 」をGoogle翻訳の力を借りつつ、読んでいます
    だから、このブログを見ていつも励まされています。
    ありがとうございます。

    • tamasonia より:

      ふうせんさん

      コメントありがとうございます。
      備忘録で書きなぐったまま誤字脱字もそのままにしていたのに、、、恐縮です、ありがとうございますm(_ _)m
      ワプニック先生の「Healing the Unhealed Mind 」を読んでおられるのですか!
      すごい、、私はたまたま読む環境になってそれに乗っかっていますが、自分から原文を読んでおられるのはすごい、素敵です。
      私も最近Google翻訳さんの手を借りることを学び、少し読むのが楽になったところです。Google翻訳、ワプニック先生の長文嫌がりますね(^-^;
      ぜひぜひこれからも続けてくださいまし。
      私も、ふうせんさんの優しいお言葉から、もうちょっとやろう!って思えました。
      ありがとうございます。

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